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4月7日 「脳への負荷」で満足せず、物事を考えよう!

 私の父はよく「これは何だ?」と言う。よく知らないものに接すると「これは何だ? 何だ?」と口にするけど、その答えを求めていない。それがどういうものなのか、自分で考えることはしない。「これは何だ?」と問いを向けている対象に、そこまで興味を向けているかどうかも怪しい。「これは何だ? これは何だ?」から先に進まない……そういうタイプの人だった。

 私たちは何かを考えようとするとき、「考えたつもり」になることが多い。
 私はつい先月まで漫画を描いていたのだけど、その途中でよく「頭が止まっている」ということがあった。自分で作成した資料をただただ見ているだけ。見ているだけで頭が動いていない……。
 これがどういう状態なのかというと、ただ「脳への負荷」を高めているだけで、実際には脳は動いていない。情報を頭に入れているだけで思考そのものは動いていない――という状態だ。
 人間の生理として、なにかしらの情報を頭に入れているだけで、心地良い快楽を感じるようにできているものらしい。例えばスマートフォンでネットニュースをぼんやり見ているとき……情報が頭に入って、脳にゆるやかな負荷がかかっている。こういう状態にすると、ゆるい快楽を感じるようにできているらしい。
 しかしこの状態はただ脳への負荷を高めているだけで、考えてはいない。ただの快楽欲求に基づく行動に過ぎない。

 これが良くない。人間は脳にゆるやかな負荷をかけることで、「頭を使った」と思い込む習性がある。でも実際にはただ「脳に負荷をかけただけ」であって、「頭は動いていない」。言い換えると「思考が動いていない」。

 私もこういう罠に陥るときはよくあって、資料に目を通しているとき、脳への負荷をかけているだけの状態に満足してしまい、なんとなく「やっている」つもりになってしまう。しばらく経って「あ、頭が動いてなかった」と気付いて、ようやく思考を動かし始める。こういうプロセスを何度もやっている。それくらいに「頭を動かす」は難儀なことだ。

 「脳への負荷を高めているだけ」の状態と「思考が動いている」状態は別のフェーズだ。しかし人間の生理として、脳に負荷を与えるだけで「考えている」と錯覚してしまう(もしかしたらこの2つが別のフェーズだと気付いていない人もいるかも)。この状態が良くない。
 とは言うものの、この2つは錯覚しやすい。
 はじめに私の父の話を例としてあげたけど、もしかすると私の父は、自分の頭で何かを考えたり、答えを出したり……ということを生涯を通じてやってこなかったのかも知れない。「これは何だ?」と毎日口癖のように言うけども、別にその対象を理解しようとはしない。自分で考えて、どういうものなのか答えを導き出した……ということがない。そういう場面を私は1度として見たことがない。答えを出すのは別の誰かがすること。例えば池上彰とか、そういったテレビで鮮やかに説明して答えを出してくれる人に考えることを委ねてしまっている。
 たぶん父は、「これは何だ?」と疑問を口にして、脳への負荷を高めているだけで、自分で頭を動かして考える……ということをずっとやってこなかったのではないか。「脳への負荷を高める」ことと「考える」ことを混同してきたのではないか。

 そこで思うのだけど、私の父のように物事を考えることが苦手……という人は実は世の中的に意外と多いんじゃないか。脳への負荷を高めるだけで満足してしまう。考えて答えを出すのは、他の誰かの役目……そう考えている人は多いのではないか。

 「何かを考える」ことは大事で、少ない知識や経験の中でも、考えて、答えを出してみる……ということは大事。このプロセスがなければ自分の考えを持つことはできない。

 こういう時、罠は「知識を身につけると鋳型に押し込まれて、物事を考える力がなくなる」という意見。昔からよく言う話だけど、「絵描きの基礎を身につけたら、鋳型に押し込まれて個性的な絵が描けなくなる」――だからアカデミズムな絵の勉強は不要なのだ! ……私の周りにこういう意見の人が多かった。まだ20世紀的な「反アカデミズム」の流れが一般の人たちの中に広く浸透していた時代だった。
 でもどんなものでも、「土台」は大事。絵を描くにしても、何かを考える場合でも、「土台」となる基礎知識・経験は絶対に必要。
 どうして必要かというと、「手数」が増えるから。物事を考える場合でも、いろんな思想家の考え方を知っていたら、「デカルト的に考えるとこう」「ヴィトゲンシュタイン的に考えるとこう」……思想家達は考え方をたくさん提供してくれているから、その思考方法を知っていると、考えるときの手数は増える。
 それに考えるとき、「知識」は「武器」になる。例えば私が映画を観る場合、「自分の個人的な感想」だけを主軸に見るのではなく、様々なものを軸に考える。シナリオ、カメラワーク、特撮、俳優……。こういうのは知っていれば知っているほど、見方が広まる。見方を知らないと、表面的な情緒しか読み取ることしかできなくなる。
 逆に私は音楽に関してはさっぱり。音楽に関する知識がまったくのゼロだからだ。音楽に関する知識がないから、私は音楽について考えることができない。これは得手・不得手というやつだから諦めている。
 知識があれば考えるための足がかりとなる。逆に知識がなければ考えることができない。知識は土台なので、その土台をしっかりさせるために知識は身につけていた方がよい。

 人は結局のところ土台となっている知識次第でどういう結論を出すのか……が変わっていく。知識の土台を持たない状態で、いきなり哲学は生まれてこない。世の中のあらゆる技術と同じく、知識もステップアップするために土台が必要だ。
 例えば土台となっている知識が迷信ばかりだと、なんにでも迷信に紐付いた答えばかり出してしまう。学びを身につけない状態の人間は、どうしても「迷信」が思考の中心になってしまう。そうなるのは迷信が私たちの精神に深く結びついているからだろう。それは良くないから、より多様な知識を身につけておいたほうが良い。

 その一方で、ダメな思考方法というものもあって……。要するに、なんでも同じテンプレートに当てはめて答えを出しちゃう……というやり方だ。
 例えばアニメの美少女を見かけると「女性差別だ!」という答えを出しちゃう人。こういうタイプの人は頭を使って考えていない。それどころか、土台となっている知識自体が歪んでいる。
 実は高学歴インテリ層ほど、こういうタイプは多い。高学歴インテリ層ほど思考の型にはめられて、自分で物事を考えない。頭でシミュレーションしたもの以外の結果がでても、その結果を受け入れない。想定外が起きたときに、自分の頭で考えない。「思考の型」を作るのは別の誰かの仕事。自分たちは思考のテンプレートをあてはめるだけ。
 でも土台が腐っていても、テンプレートに当てはめて答えを出せることに満足してしまう。考えているようで考えていない。
 もしかしたらこういうタイプの高学歴インテリが生まれてしまうのは、詰め込み型・暗記型教育の結果かも知れない……。
 こういう人間ばかりを「優秀だ!」ともてはやしちゃう教育もどうなんだろうね。

 人の優秀さについて考えるとき、日本では偏差値やIQを基準にする。でも偏差値が高かろうが、IQを基準が高かろうが、話してみると考えが浅い……そういう人はいくらでもいる。偏差値やIQが低くても、「考えて自分なりの答えを出せる人」……のほうが良いはず。
 「これは何だ?」と疑問を口にするだけで答えを出さないタイプよりも、疑問と共に考える人間のほうが大事。

 そうはいっても、「脳に負荷を与える」ことは気持ちいい。「考える」のは正直なところ、しんどい。「脳に負荷を与える」という快楽で満足していたいところだけど……やっぱり考えよう。
 あと、年と共に考える力が弱くなっている。集中力が続かない。考えよう……と思っても、10分程度で勝手に脳がスリープ状態に入ってしまう。若い頃はもっと長く、深く集中力が続いたものだったけど……。これも「老い」だ。考える力はどんどん劣っていく。衰えないように維持し続けねば……。


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