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5月11日 「文章」の時代から「言葉」の時代へ。言葉を武器に使えない人は損。

 さて、5月分の映画感想文をブログに掲載し終えたのだが、来月からどうしようか? 漫画ネーム制作がかなり大変で、しばらくこっちを優先にして、映画視聴を止めたいのだが……。

 実は4月後半は映画視聴を止めて、その時間を漫画制作に使っていた。
 でも実際にやってみると思いのほか効率よくならず……。とにかくも疲れが溜まって、休む日が出てしまって、果たしてトータルの作業量は増えたのだろうか……?

 もう一つの問題は、私のブログ訪問者の8割くらいは映画感想文目当て。映画感想文の更新を止めると、ブログに来る人もいなくなるんじゃないか……という懸念が。
(実はその映画感想文を見に来る人も、じわじわと減り続けている)
 さすがにブログの訪問者がまったく来なくなるのはまずい。そういうわけで、5月に入ってからまた少し映画視聴を再開。感想文を数本書いたら、漫画ネームに集中しよう、という予定で進んでいる。

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 私のブログは、「映画感想文」が8割くらいで、それ以外の「雑談」がほとんど伸びない。
 伸びない理由はブログが「文章」だからで、「言葉」じゃないから。
 まず「文章」は自分から積極的に読もうと思わないと内容を理解できないもの。読むためにはそれなりにカロリーを消費しなければならない。言葉であると「聞きながら別の作業をする」ができるが、文章を読むとそれ以外の作業はいったん中止しなければならない。今時の人の言い方をすると、読むという行為自体が「コスパが悪い」。同じ内容でも、「言葉」であったほうが、効率もいいし、格段に伝わりやすいのだ。
 文章には「人格」が乗ることがほとんどない。だからどういう人が、どういうトーンでその話をしているのか、いまいち推し量りかねるところがある。そういうのが伝える必要がある時は、そのぶん文章量を増やさねばならない。
 一方、「言葉」は絶対に「人格」が乗る。だからなんでもない話にもニュアンスが生まれ、そのニュアンスで面白かったり、つまらなかったりする。
 ラジオなんかで話していることの大半は特に重要ではないことだ。でも重要か重要ではないか、ということを気にしているリスナーは少ない。要はその「言葉」が心地良いかどうか、だ。
 私もラジオを聴いていたりするけど、よく聞く人のラジオというのは「内容が重要かどうか」が問題なのではなく、「言葉」が心地良いかどうか。ついでにゲーム実況でも、内容に重要度があるかどうか、で判断はしていない。喋り手の「言葉」が心地良いかどうかを重視している。
 ということからわかるように、「言葉」の強味は最終的にその「個性」が好きで、追いかけていくようになる。つまり、その「人間」を好きになっちゃう。

 私がブログでやっているような内容は、YouTubeでやったら、それなりに見る人は出るはずなんだろうけどなぁ……。とか思う。それなりに内容はあるはずだ。しかし私は喋る能力が全くない。自分で自分の声を録音して聞くと、「違和感」の前に、「不愉快」。誰が聞いても、私の声は、聞くと不愉快になるはず。喋りの能力以前に、声や喋りが不愉快だ。だから、喋りでやらないほうが絶対にいい。

 文章に「個性」が乗ることは稀な現象、あるいは稀な才能の産物なのだけど、「言葉」はどんな人にも必ず「個性」が乗る。だがその個性が誰にとっても心地良いわけではない。私の言葉にも個性は乗るけれども、私の個性はどう聞いても「不愉快」にさせてしまう。声が「商品」にならないタイプ。

 喋りができない人は、それだけでも損だ……。

 そこでちらっと考えていることは、私が台本を用意し、喋りの上手い人に読んでもらう……というやり方だが……。どこにそんな予算があるんだ、という話だ。

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 私のブログは基本的に月1更新。他作業があるから、ブログ更新にそこまで時間を割いているわけにはいかない。仕方なく月1更新……というわけだが、そこにどんな問題が生じるのか?
 読者が毎月、ガラッと入れ替わってしまう問題である。
 noteを見ると反応がはっきりしていて、先月「いいね」を入れてくれた人と、今月「いいね」を入れてくれた人は、ほぼ全て別の人。来月になると、また読者がガラッと入れ替わるだろう。私の経験で言っても、2ヶ月継続で読み続けた読者はほぼいない。

 月1更新の問題が何かというと、更新されていない間の期間に、読者の気持ちは離れて行ってしまう。
 人がついてこないのは、やはり「言葉」ではなく「文章」だからという問題にも引っ掛かってくる。言葉は楽だけど、文章は読むのに時間が掛かるし、疲れる。そのための時間を作らなければならない。「気軽に」というわけにはいかないから、少しずつ離れていってしまう。それに、言葉であると、「その言葉を聞きたいユーザー」、つまり文章内容ではなく、人間そのものに愛着を持って聞きに来る、というユーザーも出てくる。

 もう一つの問題は、私のブログでは、一貫した「主張」というか「思想」のようなものがあるのだけど、それを話題にするために「どういうことかというと…」と注釈を入れなければならないこと。おそらく先月の読者はもういないだろう……と考えると、毎回同じ説明をしなければならない。

 文章だと、「愛着で見に来る」というユーザーの開拓がほぼできない。文章に「個性」を載せることは不可能ではないのだけれど……
 あ、あのさ……こういうふうにさ、わざとらしく口語体になっちゃうじゃん? この文体だと論理の説明になるとさ、やたら時間かかっちゃうの。やたらと文章量が増えちゃうからね。それにやっぱりニュアンスが乗らないからさ、そこで伝わらなくなっちゃうものが出ちゃうっていうのがさ……。
 あと、ウザい。
 言葉でやることを文章でやると、キモい。なんだコイツ……みたいになるから、やんないほうがいい。

 なんにしても、言葉を武器にできない人は、今の時代、損だよなぁ……。


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