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7月7日 物語を「読む」ことができない人々 物語を「消費」することしかできない人々

 えーまずは岡田斗司夫さんの動画をどうぞ。

#447 『映画を早送りで観る人たち』で考える僕らのこれからの生き方

 漫画を描いている傍らでこういう動画を見て、アレコレ考えて……。こういうのがあるから、私は漫画制作に集中できないんだよな。反省反省。

 お話は、最近話題になっている『映画を早送りで観る人たち』。
 私もこの本について、方々で聞いたのだけれど、まあ感想しては「ああ、そう」だけ。いや、興味がなくてそう言っているんじゃあなくてね。そういう人、昔からいたやん……って。
 この本の中には、映画を観ていて、登場人物が喋ってない風景描写になるとよそ見をしてしまう人について語られている。登場人物が喋ってないシーンだから、物語は動いていないんだな……そう判断して、スマートフォンを開いて見始めてしまう。映画館でもスマートフォンを見始めちゃうし、自宅だったらビデオをスキップしてしまう。そういう若い人たちが多くなっているという。

 そんな話を聞いて、私は別に驚きも怒りもしなかった。だって、そりゃ私の親だから。私の親がそういう見方をする。映画を観ていても、ドラマを観ていても、登場人物が特に喋ってないシーンになると、映像から目を逸らして、お喋りを始めてしまう。そのままお喋りに夢中になって、ドラマのストーリーがわからなくなる。そういう見方だから、難しいストーリーは理解できない。私の親が理解できる作品というのは、細かい設定なんか理解しなくてもよい作品。日常を舞台にしたコメディとか、そういうものだけだ。事件ものは途中から理解できなくなるし、SFなんかは絶対に理解できない。なので、映画を観て「感動する」という感覚もたぶんないんじゃないかな。親が興味を示すのは、登場人物が何か失敗して、大袈裟に転んだりするシーンとか。要するに笑えるシーンだけを見るから、物語という大きな枠組みは理解できない。たぶん、「物語を理解できていない」ことすら理解できていない。
(だからといって、コメディ映画は見ない。「あんなふざけたもの見るか」ってな感じになる。自分ではシリアスなものを見て、理解していると思い込んでいるんだ)
 困るのは、理解していないまま、批評までしてしまうこと。途中からお喋りに夢中になって、映画のストーリーがわからなくなって、それで「よくわからん映画だったわ。つまらん」とか言い始める。せめてしっかり向き合ってから面白いか面白くないかの評価を下してほしいのだけど……そもそも2時間一つのものに集中できない性質だから、それすらできない。

 そういう親の下に育ったから、「映像を見て物語を理解することができない人々」……という話を聞いても、別に驚きもしない。あー、それ、うちの親だわ……くらいの印象。
 それに、思い返せば、私の小学生・中学生・高校生の友人達ってみんなそうだった。みんなアニメやゲームを見ていても、その中身に集中できない。物語が理解できない。見ているのは、刺激的なシーンと、笑えるシーンだけ。
 私が小学生くらいの話だけど……ゲームで時々、プロローグ的なアクションシーンが終わった後、ムードのいいオープニングムービーが流れる作品ってあるでしょ。そのシーンに入ると、私の友人はチャンネルを変えて、テレビを見始めていた。時々チャンネルをゲーム画面に戻して「あ、まだ終わってなかった」とまたテレビを見始める……。
 これが「普通の感覚の小学生」。映像や音楽を鑑賞する感性なんて、普通の人々は持っていない。そういう感覚を持っている私たちのほうが、実はおかしい。多数派の感覚が正しいとするならば、おかしいのは実は私たちのほう。

 本の中には、「今の若い世代は、自分が理解できない物語は、つまらない物語と解釈する」と書かれているそうな。その話を聞いても、「あー、いたわ、そういう人」……って知っている顔が何人も浮かぶ。自分が理解できないものは全て駄作……そういう判断をしちゃう人。自分に「読解力がない」……ということに気付かない。読解力がないことを認めない人たち。
 別にそれは今の若い人だけじゃないよ。普遍的にいますがな、そういう人。

 だから私は、仲間外れにされちゃうんだよ。みんながわからない、という物語を理解できちゃうから。物語に対する集中力が異常だった。それは多数派の人たちにとって、「気持ち悪い存在」だったんだよね。私と同じくらい理解力の高い人は、私の周囲にいなかったから、私は地元で孤立するしかなかった。
 でも田舎のガキんちょなんて、そんなもんだよ。物語なんて、そんなものは誰も真面目に見ない。だって、そういうの合理的感性に基づいていうと「意味のないもの」だから。都会でも同じかも知れないけどもさ。

 ではなんでそんな人たちが今の時代に、書籍になるほど顕在化してきたのか。それは、今まで「アニメなんか見ない」と言っていた人たちがアニメを見るようになったから。「映画なんか見ないよ」と言っていた人たちが映画を見るようになったから。……と、私は解釈している。要するに、アニメや映画を観る人が急に増えたから、そういう人達が増えたかのように見えただけだ、と私は考える。

 今の世代は、みんな「個性」が欲しい。Twitterのプロフィール欄に描ける個性がほしい。そういうところで、「オタク」は手っ取り早く簡単に手に入れられる個性だった。若い人たちの感覚ではそうだった。
 でもちょっと待って。そもそも「オタク」とはなんなのか? ちょっとこのお話をやっつけよう。
 「オタク」というのは、そもそも「オタク族」の略語である。「族」と付くから、「部族」のことだ。「部族」というのが重要なポイントだから押さえておきたい。
 1980年頃、大人になった団塊世代達は、その当時の若者達を理解できない。そこで、若者達は自分たちとは別種族だ、「新人類」だと切り分けて、さらに若者達を「属性」で切り分けていった。「オタク族」はそういった新人類達の一つだった。
 ところが、メディアが語り、広めていく「オタク」なるものは現実には存在しなかった。メディアは紋切り型の「オタク像」を広めていったけれど、でも現実にそれに当てはまる人間はいなかった。1989年、埼玉連続幼女誘拐事件を切っ掛けに、世の中のあらゆる事件は「オタク」か「オタクっぽい人たち」が起こしている……と人々は信じるようになっていた。オタクは人々から「警戒される人たち」になっていった。90年代に入り、神戸市須磨区連続児童殺傷事件を切っ掛けに「少年犯罪報道」が異常なほど増えて、大学の研究者達はこぞって「アニメやゲームに夢中になる人たちが少年犯罪を引き起こしている」……つまりオタク=犯罪者説を熱心に語っていた。
 でも、それを示すデータなんてものはどこにもなかった(そもそも90年代当時、少年犯罪は戦後最低を更新し続けていた……ものすごく少なかったが、報道があまりにも多いため、人々は「少年犯罪が増えている」と錯覚してしまっていた)。本当にそう思っているなら、受刑者たちがどれくらいアニメやゲームに接していたか、調べればいいのだけど、誰もそんな調査すらしない。誰も思っているだけで調べない。実際のデータがないのに信じる……そういう状況が続いた。
 それで私は、「大学の先生が言うことは信用できない」と思うようになっていった。

 私もこの時代は、「萌え~」とか言いながらパンツ見せてくれる美少女アニメばかり見ていると、周りの人たちに思われていた(美少女は大好きだけどさ)。色んな人から「事件起こすなよ」と笑いながら言われていた。でも私は、別に美少女アニメばかり見ていたわけではない。そもそも世にあるアニメはそういう作品ばかりというわけではない。いろんな映画を観ていたし、色んな本を読んでいた。でも、周りからは「美少女アニメばかり見ている人」と見なされていた。それが「オタク」というもののパブリックイメージだったからだ。
 私たちは「お前はオタクだろ」と一方的に言われ、排除され、名実ともに「少数部族」となっていった。私個人が、ではなく、私みたいな人はみんなそういうふうに見られていた。しかし人々が信じていた「オタク像」は現実にはいなかった。「他称:オタク」がいたけれども、実は「オタク」なるものは存在していなかった。

 ところが最近に入って、奇妙な現象が起きるようになった。ネットでは「オタクは好きなことを語ると急に早口になる」というが、私にしてみれば「そんなやつ、いるか!」だ。……だったのだけど、若い人たちは本当に、ネットで語られているような言動をする。
 私にはこういう人たちがネットで語られている「オタク」を“演じている”ようにしか見えなかった。しばらくして気付いた。そう、彼らはオタクになりたくて、ネットで語られているイメージの通りの言動を演じているのだ……と。
 なぜそうするのか、というと「個性」が欲しいから。オタクなら、別に努力しなくても苦労もしなくても、アニメさえ見てれば簡単になることができる。ネットでよく言われているイメージを演じればいい。「個性」なんてものを自分で苦労して見つけ出す必要もない。スポーツみたいに怪我をする恐れもない。若者達にとって、もっともお手軽に得られる個性だったわけだ。
 簡単になれるものだから、今の世代の若者達はオタクになりたがる。
 しかし若い世代の「オタク」たちは、私たち世代の「オタク」とは全くの別人種なのだ。
 もう一つ言うと、オタクは2000年代以降初めて出現した。これは、みんなが思い込んでいるようなオタクが……って話だけど。
 いつからそうなったかわからない。だって私は、別にオタクのコミュティの変遷なんかに興味は全くないから。気付けばそうなっていた。
 そして今の若い世代の「自称:オタク」たちは、間違いなく一つ前の世代では「アニメなんか見ないよ」と言っていた人たちである。そういうライトな人たちが、「オタク」というお手軽な称号を手に入れたくて、アニメを見始めたのだ。

 話は戻ってくるけれども、「オタク」を自称するわりには集中力が低い。やたらと読解力が低い。物語を読むことができない。キャラクターが喋ってないシーンに入ると、スキップしちゃう。それ以前に、倍速でアニメを見る。そういう人達がアニメや映画を見るようになった。それどころか、いまアニメ業界のお客さんは、大半がこういう自称オタク達である。
 このあたりが、「オタクと呼ばれた人たち」と「オタクを自称する人たち」の差である。
 いまオタクを自称する人たちは、かつての時代では物語なんて読まないようなタイプの人たち。集中力が低く、キャラクターが喋っていないシーンに入ると、よそ見してスマートフォンを開いてしまう人たち。複雑な物語が理解できないから、日常系美少女アニメばかりを好んで見る。物語の良し悪し以前に、「絵」そのものの良し悪しすらも理解しない。
 でもこういう人たちは、自分たちが読解力が低いことを絶対に認めない。という以前に、気付かない。「わからないのは、作り手のせいだ」と考える。

 ではどうして現在の自称オタク達は自身の読解力のなさに自覚がないのか。ひとつにはそれを数値として示されたことがないから。さらに言うと、それを数値としてしめす術がないから。
 学校で「読解力」なんてものはテーマにならないから、学力として示されない。だから自分の読解力の低さが自覚されないままで、そこに格差なんかあるなんて誰も思わない。当然ながら、読解力の低さにコンプレックスを持つこともない。だから自分の理解できない作品は、自分が悪いのではなく、作品のほうが悪い……と考える。
 そういう人は、実は普遍的にいた。私の周りは基本的にこういう人だらけだ。普遍的にいたけれど、私たちの界隈に入ってくることはなかった。なぜなら、彼らは私たちを見下していたからだ。
 ところが2000年以後、こういった、かつてならアニメを見なかった人たちがアニメを見るようになっていった。アニメが面白い……ということに気付いたからか? それも一部あるだろう。それ以上に、若者達は「個性」が欲しかった。そこで、努力も苦労もしないで、手っ取り早く簡単に得られる個性である「オタク」を選んだ。

 自分たちが読解力が低いことに気付かない……というのは(すでに書いた通り)私の親もそうだ。という以前に、私の親は「自分はそこそこ頭が良い」と信じている。「自分は他の人より、いろんなことを知っている」と思い込んでいる。なぜなら……ここで認知能力の問題が出てくるのだが、自分の考える認知能力の範囲で優れているか劣っているか、の判断しかできないから、自分がさほど読解力がないことに気付くこともない。むしろ自分の認知している範囲でなら……自分は結構頭がいいのでは、と考えてしまう。(私の父は家族に対してもいつも見下し気味ですし)
 私は、「自分は映画通だ」と思っている人たちから、「お前はこういう映画見てないんだろ」とマウント気味に言われることが多い。いやいや……だいたい見てますがな。あんたの挙げた映画は全部見てますよ……でも私は面倒なので「ああ、そうですね」としか言わない。「自分は頭が良い」と思い込んでいる手合いは、言っても聞かないのはよく知っているから。
 一つ前の章で「○○を見てないやつは人生の半分損しているわ~」という話題を取り上げたが、これには認知能力の問題が関わっている。人は自分の認知できる範囲で、目の前の人より勝っているか劣っているか……その興味しか持てなくなる。そういう興味しかないから、一時の優越感を味わいたくて「人生の半分損しているわ~」とか言っちゃう。だって気持ちいいから。

ちょっと違う話題だけど、このお話も取り上げよう。
 批評の危うさは、読解力のない人に曲解される恐れがあることだ。読解力のない人が批評を読むと、それを価値観の全てにしてしまう。
 例えば、作り手のところに批判記事を持ってきて、「この人もこんなことを言っているぞ」とわざわざ伝えにいく。作り手をどうにかこうにか攻撃したくて、そういうやり方をする。
 また……これは私の実体験だが、ちょっとした批評を読んで「僕が好きなものを否定した! 許せない!」と思い込む人もいる。私は実際にこういう手合いに遭遇して、以降しばらくつきまとわれたことがある。
 この件に関して注釈すると、私は別に「全否定」したわけではない。一部について「ここがね……」と書いただけだ。それで「全否定した! 許せない! やっつけてやる!」と、私につきまとい、攻撃をしてきたのだ。なぜそうしたのか……というと、もうおわかりかと思うと「正義」の心からだ。自分では正義のつもりなのだ。まさか自分が「厄介な行動」を取っているとは想像も付かない。そういう客観視ができない人が、「正義」を根拠に暴走をしてしまう。正義のためなら暴力も私刑も許される……そういう考えに陥る人は実は多い。
 そういえばだいぶ古い記憶になるのだけど、友人との会話であるゲームについて「いいゲームだけど、あの要素がもったいないな……」という話をしたら「全否定かよ!」と友人が怒り出したことがあった。そんなふうに言ってない……とすぐに釈明したが、話を聞いてもらえない。たとえ一部であっても、自分が「絶対」と思ったものに対して傷を付けることを許せない。傷を一つでも付けたら“全否定”と判定する。あの時は友人がどうしてあんなに極端な反応を示したのか理解できなかったが、今ならわかる。彼は読解力が低かったのだ。
 「アンチ」なるものがなぜ出現するのか……というと、まず第一に読解力の低さ。それ以外にも要因は考えられるが、まず読解力の低い人がアンチになりやすい。なぜなら、普通の読解力があれば、アンチのように極端な解釈をしたりするはずがないからだ。
(ブログで感想文を書く時は、こういう読解力の低い人に向けた配慮はしている。「僕の大好きな作品を全否定した!」……とか言ってつきまとわれるのは厄介ですから。「誤読」させないよう、同じ内容を繰り返したり強調したりはよくする)
 さらにまた少し脱線をしてしまうけれども、いわゆる「都市伝説」や「陰謀論」を信じやすい人たちも、読解力の低い人たちではないか。普通の読解力のある人なら、語られている内容に矛盾や曖昧なところがあることに気付くはずだ。それを気付けないほどの読解力のない人が、あるとき都市伝説や陰謀論に触れてしまうと、信じてしまう。自分が「読解力が低い」なんて自覚はないから、書かれている内容を警戒したりはしない。
 と、こんなふうに考えていくと、読解力の低い人、読解力が低いことに自覚がない人たち……こういう人々がなにかと問題を起こしやすい、ということが見えてくる。

 と、ここまで話した現在のオタクとか、映画を早送りで見ちゃう人たち……というのは実は「小テーマ」なんだ。私がここまで時間をかけて書いて(今日一日で私はどんだけ書くんだ)、語りたかったこと、というのは「数値化されない能力」についてのお話。
 前の章で、私は官僚達の認知能力のお話をした。官僚達は間違いなく私たちよりはるかに頭の良い人たちだが、しかし認知能力は私たちとそう変わらない。もしかすると低いかも知れない。でも官僚達というのは、自身の認知能力の低さに自覚はない。なぜ自覚がないかというと、そんな指摘を誰からもされたことがなく、さらに数値化もされないから。頭は良いが認知能力は低い……だから国の中枢にいて、国について考えることができない、という奇妙な状況に陥ってしまう。
 頭の良い人たちでも都市伝説や陰謀論を信じてしまう……というのも同じ話だ。
 今回の章では、「読解力の低い普通の人たち」のお話をした。なぜ彼らは読解力が低いことに自覚がないのか。それどころか読解力の低さに気付かず、「理解させてくれない相手が悪い」という態度を取り始めるのか?
(逆に理解させてもらえれば、都市伝説でも陰謀論でも信じてしまう)  こちらもなぜかと言えば、「読解力」なんてものはスキルとして誰も認識されていないから。国語のテストが低い・高いという話ではない。たぶん、国語でいい成績を収める人であっても、読解力はそんなに高くない……という人もいるかも知れない。「読解力の高い低い」なんて概念は、普通の人々の意識の中にはないのだ。

 さて、この「認知能力の低い人たち」と「読解力の低い人たち」を並べて語った意図はなんなのか。ここからは私の感覚の話になるが……実は同じものなんじゃないかな、という気がしている。現代の自称オタク達は読解力が低いが、しかし学力が低いわけではない。優秀な人たちも一杯いるだろう。しかし学力世界の優秀さと読解力は別モノ。一流大学に入っているのに、アニメやゲームを語ると印象や感情しか語れないポンコツなんていくらでもいる。認知能力にしても、これはそもそも鍛えることができない感覚だから、国のトップクラスの知性を持っていたとしても、相変わらず認知能力は低いまま。大企業のトップは下請けなんてどうでもいいし、ぶっちゃけ、消費者もやや見下している。国のトップも同じように国民なんて「下々の人」と見下している。そういう意識になるのは、認知能力自体は鍛えられていないから(まあ、鍛えることすらできないんだけどね)。
 こういう人種は、今の時代に唐突に増えた……のではなく、実は普遍的にいた。認知能力の高い人も低い人もいた。読解力の高い人も低い人もいた。そういう人達は、いろんなコミュニティにまんべんなくいた。ただし、そもそも私みたいにアニメや映画を好んで集中的に観る(他称:オタク達)……みたいなタイプはかつては読解力がやたらと高い人……と決まっていた。それが今の時代に入って、読解力の低い人も高い人もどんどん入ってきてしまった。
(もちろん、「読解力が高い=学力が高い」というわけではない。だって私、Fランク高校出身ですし。それくらい数値化されない能力ってこと)

 それではこういう、認知能力が低く、読解力も低い人たちについて、どうすればいいのか……私は何もしない。たぶん、この認知能力や読解力の問題は、どうにもならないんだろうと思うんだ。読解力が低い人たちは、自分が読解力が低いことに永久に気付かない。認知能力の低い人たちは、自分の認知能力が低いことに永久に気付かない。それに気付かせてやる必要もない。気付かせたところで、それぞれの人たちが「よし、認知能力や読解力を高めよう」なんて思わないだろう。だって、そんなの高めたところで、学校の成績が上がるわけでもなければ、お給料が上がるわけじゃないから。「うん、それで?」が人々の反応だろう。生きていくために必要なものじゃない。何も変わらないんだったら、何もしないだろう。
 いいことがあるとすれば、せいぜい、普通の人より10倍くらい映画が楽しく観られる。映画の制作方法や仕組みがわからなかった頃より、わかるようになった今のほうがだんぜん面白く見られる(わからなかった頃、というのは“直感”がすべてだったから)。その程度の能力の話なのだから。あったら人生が楽しくなる能力だけど、「生きていくために必須なスキルか?」と問われると必要ではない。この話を聞いた人たちも、「あ、別にいらないな」と思うことだろう。その程度の話だ。
 読解力が低い人々は実は何の問題ではない。高かったからそれで給料が上がるとか、寿命が延びるとかそういうことすらない。モテる……ということすらない。それ以前に、読解力の低い普通の人たちに、気付かれることすらない。だったらごく普通の人が読解力が低くても、何も問題ではない。私たちだけの、誰も気付かれていない能力だ……という話で充分だろう。
 私としては「そういう人は普遍的にいるよ」と言うだけかな。今までもいたし、これからもそういう人達はいる。それは気にするような話でもないよ……世の中そんなもんだ、というのが私の結論だ。

 さて、かつてはアニメを見ていた人たち……というのはやたらと読解力の高い人たちだった。今はアニメは見やすくなったけれども、かつてはもっとマニアックで、見る側が解釈に解釈を重ねないと意味がわからなかったものだけど、最近のアニメはどれもわかりやすく、見て楽しいものになった。
 すると、読解力の低い人たちが大量にコミュニティに入ってきた。そういう状況になるとアニメの作り手もそういう人たちに合わせて、お話をどんどんシンプルに、お約束つまりテンプレートだらけにして、頭を使わずに見られるよう、内容に薄く甘くしていった。アニメからどんどん知性が喪われていく。
 でも……私が思うに、別にいいじゃないか、と。
 ハリウッド映画を観てみよう。どんなに頭の悪い人でも理解できるように、ありとあらゆる工夫が施されている。ハリウッド映画は世界で売ることを前提に作っているので、あらゆる文化圏に出しても問題にならないよう、内容に細かい工夫を重ねて作っている。
 その一方で、ハリウッドといえば全ての作品がバカみたいに手首から蜘蛛の糸を出したり、拳から鋭い爪を出したりするわけではない。玄人向けの作品は世の中に一杯ある。それくらいの“レンジ”は存在する。
 アニメもそういうふうになったんだ。かつてはマニアしかいなかった。それがライト層が大量に入ってきて、そういう人たちに向けた作品が生まれていった。つまり“大衆的”になっていった。
 アニメは“大衆文化”になっていった。アニメはずっと収支のバランスが崩壊した文化だった。明日にも消えてなくなる……それくらい危うい綱渡りをしてきた文化だった。それが今ではだいぶ商業的にきちんとした文化になった。大衆文化になることで、アニメという文化自体が持ち直したんだったらそれでいい。
(かつては、物好きな社長さんがあぶく銭を投資してくれていたからアニメは消え残らず残っていた。今では商業的に自立できている……という状態まで来た)  それに、全てのアニメがバカみたいな異世界転生ものばかりになったわけではない。ちゃんと玄人向けの作品は存在している。それくらいの“レンジ”はアニメにだってある。作り手だってバカみたいに必殺技の名前を叫んで暴れ回る作品ばかり作りたいわけではない。時に“作り手の意地”が乗った作品だって作りたい時はあるさ。
 大衆的な作品を中心に、時々作り手のエゴ剥き出しの玄人向けの作品がこっそり出てくればいい。勘のいい本物のアニメファンは、そういう作品に気付くものだから、埋もれることもないしね。

 あんまり売れないかもしれないけど。
 読解力の低い人は、そういう作品を「自己満足作品」とか「雰囲気だけ作品」とか言うんだろうしね。


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