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読書感想文 遊びと人間

 優れた歴史家は「遊び」について考える時、たくさんの資料をひっかきまわして調べ、一方の心理学者は体系的観察を繰り返した後に遊びが社会にとっては文化的活動の発展のために、あるいは個人にとっては精神教育と知的進歩のために必要な主要原動力、活力の一つではならないと考えている。
 「遊びの無償性」というものを考えた時、この考え方は意味深く聞こえる。遊びは「取るに足らないもの」と考えられるもう一方で、重大な影響力を持つとも考えらえている。この逆説的なコントラストは、おかしみでもあると同時に、興味深い関係性があるように感じられる。

 では「遊び」の言葉が示しているものについて少し列挙してみよう。
 第1の「遊び」は文字通りの「遊び」「ゲーム」だ。チェスやトランプなど、一定のルールを持ち、そのルールの中で優劣を競い合う形式だ。
 第2に、音楽や演技の流儀、様式を意味する。役者や演奏家は基本的に、台本あるいは楽譜によって縛られているが、しかし実際にはそのなかで独自の解釈やニュアンスというものが許されている場合があり、さらにそれを表現することを求められている場合がある。こういったものも遊び(ジユ/演奏)と呼ぶ。
 第3に賭け事。リスクを冒すこと、も「遊び」と表現されることがある。財産を浪費する活動は、まったくの浪費である場合もあれば、その後の儲けを予想して計算したうえで差し出すものもある。これも遊びの形式の一つだ。
 第4の遊びは、例えば機械の歯車を作る場合、ガチガチに作ってしまうと歯車はうまく回らなくなる。だから少し“余裕”を与えることがある。これも「遊び」と呼ぶ。

 このように「遊び」は様々な概念を表現するし、遊びから生まれた言葉は世界中に様々あり、多様で複雑なものであることがわかる。遊びが文明・文化を構成し、規則付けしていることは疑いようもない。
 俯瞰すると、遊びは全体性・規則・自由の諸概念を持っている。ゲームのルールとは規則と制約であり、良きプレイヤーとはその制約の中でいかに創意と能力を発揮するかにある。またルールという掟を破ると遊びそのものが崩壊する。ルールを破るとトランプやチェスは公平性を失うし、演奏や芝居はグダグダになるし、歯車は壊れる。だから遊びはその理想とされる形式が保護されてなければならず、さらに共有されていなければならない。

 と、このように遊びの性質について例を示していくと、私たち文明が遊びに影響され、成立していることがわかるだろう。私たちが守るべきと思われる「法律」も抽象構造概念であり、それは共有され守ることが絶対的であるし、その法律には「遊び」と呼ばれる「余裕」の部分もあるし、このルールを侵すと即座に罰則が下される。そしてこの「法律」というルールに無理があると発覚すると、私たちはルールの変更を要求する。遊びと法律は位相が違うだけで似通ったものであることがわかってくる。
 文明とは粗雑な世界から管理された世界へと移行することにあるのだから、遊びは文明という均衡を人々に思い描かせ、あるいは確認をさせるためにある。

 遊びは子供の自己確立・性格形成に重要な役割を果たしている。遊びは力・技・計算の訓練であり練習だ。あるいは肉体を逞しく・柔軟にさせる。精神をより体系的に・創造的にさせる。骨の折れる仕事も、遊びは楽しみと粘り強さを通して、容易にしてくれる。
 遊びは勝とうとする意欲を前提とする。遊びは禁止行為を守りつつ、己の力を最大限に発揮させる。同時に相手もルールを守ることを信頼し、「敵意」ではなく「ライバル」として戦う精神を養う。それで負けたとしても、ゲームの精神が根付いていたら怒ったり自棄を起こすことなく、敗北を受け入れることができる。もしも敗北したことに腹を立てたり愚痴をこぼしたりすると、その当人が信頼をなくしてしまう。遊びによって人は自己抑制を身につけていくのだ。

 「遊び」の定義について考えてみよう。
 「遊び」には生活エリアから分離され、隔絶された「フィールド」が存在する。これが「遊びの空間」を規定する。チェスボード、碁盤、スタジアム、トラック、運動場、舞台、闘技場……などなど。故意であれ意図的であれ、そのフィールドから出てしまったり、ボールなどを出してしまった場合、失格かあるいは罰を受ける。
 もう一つ、フィールドには場所的な隔離空間とともに、時間的な空間も存在する。「試合時間」がそれだ。
 規則を持たぬ遊びもある。兵隊ごっこ、警官ごっこ、飛行機ごっこ……。規則は少ないが、これらの遊びの魅力は、役を演じることにある。規則はないということと矛盾するように思えるが、ここでは虚構と感情が規則にとって代わり、正確にそれと同じ機能を果たしている。チェス遊びなども人が本気になるのは、その機能をなぞらえているからである。
 遊びとは振る舞いが見せかけであり、物まねに過ぎないという意識が伴う。これが人を現実規則から遠ざけて、ゲーム世界の意識と呼ぶべきものへの没入をもたらす。

遊びの分類

 続いて、遊びの「分類」について考えてみよう。
 カイヨワは遊びの分類について、次の4つのパターンを考案する。

アゴン Agon ギリシア語 試合、競技
   サッカーや野球、チェスなどの競技

アレア Alea ラテン語 さいころ、賭け
   ルーレットや富くじなど、賭ける、運を天に任す遊び。

ミミクリ Mimicry 英語 真似、模倣、擬態
   ごっこ遊びや演技、芝居。

イリンクス Ilinx ギリシア語 渦巻
   急速な回転や落下運動によって、器官の混乱と惑乱した状態を生み出す遊び。

 この4つの遊びの形式にプラスして、次の概念によってレベルが導入される。

ルドゥス Ludus ラテン語 闘技、試合
   努力、忍耐、技、ルールに対する厳格さについて
パイティア Paidia ギリシア語 遊戯
   無秩序、奔放、自由な状態。自由な遊び

 アゴン
 「競技」を指す。アゴンは試合の中で技術、スピード、力強さ、記憶力を示し、勝利と称賛を得るために戦うことだ。試合に勝つこと、あるいは記録を出すことに邁進する。もちろん、公平であることも大事だ。アゴンの多くは職業化している。
 サッカー、野球、ボクシング、フェンシング、バレーボール、ゴルフ……これらはアゴンと分類される。ルールに則って競技をすることが定義だから、チェス、将棋、ビリヤードの知的ゲームもこのカテゴリーに入る。
 アゴンのために選手は訓練を積み重ね、努力し、忍耐が求められる。選手は自分の力に頼るほかなく、己の力のみで勝利に向かっていく。アゴンは個人能力の純粋形態として現れ、それを表明するのに役立つ。

 アレア
 アゴンとは逆に、遊戯者の力の及ばない何かに、運命のすべてをゆだねる遊びである。サイコロやカード、ルーレット、富くじ……これらの遊びをアレアと定義づける。
 アレアは完全に受動的な遊びだ。素質、性向、技量、筋力、知識などは必要とされない。ただその時の運と運命が全てだ。
 アゴンは個人の責任を引き受けることであり、アレアは意思を放棄して、運命に身をゆだねることだ。

 ミミクリ
 ミミクリはアゴンやアレアのように架空のフィールドの中で活動をしたり、運命に服従することと違い、遊戯者自身が架空の人物となり、それにふさわしいふるまいをすることである。演技や仮装がミミクリである。ミミクリはルールを守り続けるアゴンとアレアとは違い、常にキャラクターを、物語を創造し続けることにある。
 ミミクリとアゴンは一見すると全くの別物、関連を持ちそうにないが、ある部分においては結びつきを持つ。というのもアゴンは、主要なる遊戯者を除けば一つの見世物である。その見世物と接しているとき、観客は選手の気持ちと同一化する。この時の意識はミミクリの状態にある。
 一方、アゴンの競技者もミミクリの要素を持っていないとは思えない。観客を意識して「強者」というキャラクターを演じることもありうるだろう。

 イリンクス
 現実的な平衡感覚を意図的に喪失させ、官能的なパニック状態を作り出すことをイリンクスと呼ぶ。遊園地のアトラクションのことだといえばわかりやすい。
 遊園地のアトラクションのような大掛かりなものではなくとも、公園の遊具の中には平衡感覚を狂わす遊びがたくさんある。落下、振り子、滑走……公園の遊具は平衡感覚を狂わせることを目的としており、子供たちはその遊びが器官的に“楽しい”と本能的に知っているから好む。
 遊園地が生まれる以前でも、イリンクス的な遊びといえば舞踊など。あるいは軽業や空中サーカスなど洗練された技術もあるが、これらはイリンクスの遊びを極限まで極めて、一つの「技」としたものだ。

 パイディアとルドゥスは対立した定義である。
 パイディアの遊びには特定の名前がない。名づけようがない。パイディアには特定の秩序、ルールが存在せず、また即興で、道具も必要としない。大らかで意味がない。発散の遊びのことを指す。
 その逆がルドゥスだ。ルドゥスは厳格なるルールを持ち、道具があり、フィールドがあり、競技者はこの中で競い合う。ルドゥスはパイディアをしつけ、豊かにするためのものだ。
 だが厳格なるルドゥスの中にも、少しずつパイディアが存在し、そのパイディアのなかで競技者は己の創造性を発揮させる。
 ゲームは厳格さによって、ルドゥスからパイディアに分けられる。厳格であれば厳格であるほど、ルドゥスに近づき、自由であれば自由であるほどにパイディアに向かう。ルドゥスとパイディアは、アゴンやミミクリがどのレベルにあるものかを説明するためのものである。

本 遊びと人間 図

感想

 本書からの紹介は以上としよう。……ちょっと書いてて疲れる内容なんでね。ここからはパイディア的なゆるーい感想に入る。
 『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ的な言い方をすると「法律」も「ゲーム」も同様に「虚構」であり、単に「位相」が違うものであるとしよう。
 ゲームのルールは守られることが絶対だが、違反しても特に大きな罰は与えられない。ただ険悪になるだけだ。また審判が「しゅーりょー」と宣言すれば、どんなにゲームの世界に没頭していたとしても、瞬時にその世界から解放される。
 一方の「法律」は違反したら即座に罰があたえられ、拘束される。終了宣言は基本的にはなく、その宣言がなされるときというのは国家そのものが終わる時だ。その国の一員になると人々は、その国のルールに従うことを絶対とし、その国の一員という演技をし続けることになる。そして演技をしていることを自覚しない。
 ゲームは基本的には取るに足らないもの、利益にならないもの、だ。しかし高度に発達したゲームは大規模になり、競技化し、さらにはグローバルなものになる。野球やサッカーは大掛かりな競技場を持ち、試合となると人がたくさん集まり、経済が大きく回る。こうなると「取るに足らないもの」ではなくなり、社会の中で一定地位を持つようになる。
 もともとは「取るに足らないもの」という出自を持つ「遊び」が、大きなお金に変わる。お金に変わり、地位を持ち、人々の注目の対象になる。
 ゲームのルールというのはやはり不思議なもので、審判が「しゅーりょー」といえば終了なのだ。その場限りの仮初のもの。所詮はゲームルールでしかない。ところがゲームがグローバルな力を持ち始めると、ルール一つ変えるにしても大変な手続きが必要になる。国家のルールこと「法律」はその国単位で終わるものだが、グローバルなスポーツのルールとなると様々な国家・利権が関連してきて「気軽に」とはいかなくなる。また違反は、こちらも気軽なものではなく世界中のありとあらゆる試合に出られなくなる危険性を持つようになる。この関係性になると、国家の法律がある意味上位で絶対的なものと思われているが、ゲームがグローバルな地位を持つとこの関係性は逆転する。しかしそれでも相変わらずゲームのルールとは仮初のもので、審判が「しゅーりょー」と言えば終わりなのだ。

 遊びは取るに足らないものから出発するが、しかしそれはやがて地位を変えていく。遊びが経済を回すようになると、人々の遊びに対する見方が変わってくる。その遊びそのものには全く興味がなくても、その遊びに関連するものに投資したり、消費したりするようになる。遊びが儲けを出すことを期待するようになる。また競技者はヒーローとなり人々の憧れとなる。
 人はパンのみにて生きるにあらず。人は生活に“必要”なものだけで生きていくことはできない。いや、生きてくことはできるが、決して満たされることはない。人は「遊び」を欲する。遊ぶことを欲し、遊んでいる他人を求める。遊びを極めた人を尊敬する――仕事を極めた人以上に。
 遊びとはその文明・文化の物差しだ。その社会の中で、どのような遊びがもてはやされているか、どれくらい発展・発達しているか。それがその文明・文化の豊かさを測る“基準”にもなり得る。遊びが未成熟、あるいは競技者のレベルが低い国・文化というのはそれだけ貧しい、という見方をされることもある。高度な遊びとは、「余裕」がもたらすものだ。遊びが人々に広がり、ルドゥス的に深めている状態とは、それだけの余裕があることを示すし、それが「創造的な遊び」である場合は教養の深さを示す物差しにもなる。創造的な遊びとは、文学や映画のことだ。これらをより深く、複雑化させている文明・文化は確実に豊かなものであると言うことができる。

 今回「遊び」をテーマにした本を読んだのは、デジタルゲームに対する理解を深めるためだ。デジタルゲームはアゴン、アレア、ミミクリの3要素を包括する。眩暈や惑乱を引き起こすイリンクス的な遊びは、ゲームプレイヤーが画面と向き合うところで完結するものなので、あまり例がないように思える(VRゲームはイリンクスかも知れないけど、まだ未経験なのでそうなのかよくわからない)。
 デジタルゲームの大半はアゴンだ。厳粛な競技であり、作り手であるゲームマスターと1対1で向き合うものであり、最近の対戦ものとなると対戦者同士で技を競い合うものになる。
 eスポーツははっきりとサッカーや野球と同じカテゴリーに入ってくる。もともとは取るに足らない子供のものと思われていたデジタルゲームは、競技化し、集客する力を持ち、大きな経済を動かすほどの力を持つようになった。サッカーや野球と同じ発達の仕方をしている。
 が、しかしeスポーツは致命的に社会地位が抜け落ちている。どういうわけかeスポーツは間違いなく発達し、経済的遠心力を持っているのに、なぜか選手達に他のスポーツほどの栄光が与えられてない。これは「eスポーツの歴史が浅い」という話とは少し違うように感じられる。明らかに言ってeスポーツの発達に対して、社会が追い付けていない。社会の方があまりにも遅れている。社会がデジタルゲームとはいかなるものなのか、そういう普遍的イメージが共有されず、事態だけが進行してしまっている。デジタルゲームがそれだけその社会・文明の中で深められていない、ということの証明だろうと思われる。


 デジタルゲームのアレア的遊びといえば、ボードゲームやカードゲーム。『桃太郎電鉄』シリーズがそうだし、『ドラクエ』シリーズに毎回オマケとして用意されるカジノがそれだ。こうしたアレア的な遊びは、アゴンでひしめく息苦しさの中でしばしの憩いを提供してくれる。とはいうものの『桃太郎電鉄』にも「戦術」は存在し、何もかもが運に任すアレアではなく、勝とうとするとアゴンに近づいていく。どうにもデジタルゲームのアレア的なゲームは、アゴンに向かっていく傾向にあるようにあるように思える。デジタルゲームはアゴンのほうに親しみを持っているようだ。
 アゴン的なデジタルゲームの中にも、アレア的なもの……「乱数」が少しばかり存在している。RPGの敵に与えるダメージ量など、実はアレア的な偶然性はあちこちに存在する。時にゲームプレイヤーはアレア的なものに身を委ねて、コマンドを選択することもわりとある。
 RPGやシミュレーションゲームには「会心の一撃」と呼ばれるラッキーがあるが、あれはアレア的なものかというとそうじゃないような気がする。ゲームユーザーは「会心の一撃」に希望を委ねることはせず、その可能性を除外し、あるいは様々な可能性を考慮に入れてコマンドを実行する(『桃鉄』の場合でも、出る目とあと歩数どれくらいなのか、という計算はきちんとしたうえでサイコロを振る)。ではどうして「会心の一撃」のようなラッキーがあるのかといえば、それは作り手側のサービスだ。そういうものがあれば嬉しいと知っているから入れる。

 こう考えると、デジタルゲームはアレアとはあまり結びつかないのかもしれない。アレア的なものといえばガチャなどがそれに当たるが、欧米では登場するや否や法律問題となって、現状、規制の対象になっている。日本は規制の対象になっていないが、ガチャにまつわる複雑な感情が存在している。
 デジタルゲームのユーザーはあくまでもフェアな体験を求め、そのうえで実績を積み上げていく行為にこそ喜びを見出す。本書ではブラジルでは成人の8割は何かしらの賭け事にお金を投資しているという話が紹介されている。賭博要素を好まないデジタルゲームのユーザーからすると、驚くような話だ。デジタルゲームは賭博ゲームから解放された、新時代のゲームの形とも言えるかもしれない。
 ミミクリはRPGやアドベンチャーゲームなど全般。物語を主体にするゲーム全般がミミクリだ。ミミクリのゲームを遊ぶとき、プレイヤーは物語に没入し、主人公の気持ちになり、演じているつもりでゲームを進めている。「主人公の気持ち」になっている気分は、映画や小説よりもずっと深いものがある。
 ミミクリはRPGやアドベンチャーゲームだけではなく、アクションやシューティングなどありとあらゆるゲームの中に偏在している。ゲームの評価といえばそのゲームそのものの良し悪しで決まるのだが、それとは別基準として、世界観やキャラクターの良し悪しも評価基準として大きな地位を示している。なぜならゲームプレイヤーは、そのゲーム中の誰かになったつもりでゲームを進行しているからだ。それはRPGだけではなく、アクションゲームでもそういう陶酔的な気持ちがあり、その陶酔の深さによってゲームの評価は何倍にも膨れ上がったりもする。
 現在はゲーム実況やeスポーツといった「鑑賞」のためのゲームも大盛況の時代になっている。これを楽しむ意識もミミクリの精神だ。もともとはゲームマスターとの1対1のゲームであっても、それを「鑑賞するもの」に変えてみせたのは面白い発見だし、それが一種の「芸」として発展するさまがなかなか愉快でもある。こちらはまだまだ様々に発展していくだろう。

 「遊び」というとどこか他愛のないもの、子供のものとしてある程度の大人になると自分とは関係ないとつい考えがちだ。だが「遊び」からその社会・国がどんな文化を持っているかわかる。また一方で最近のeスポーツを巡る騒動からその遊びが文化の中で根付いていない、深められていないこともわかってくる。それに遊びが大きな経済を動かす原動力になっているのも忘れてはならない。高度に発達した遊びは、いつか社会と同列の存在にまで大きくなるのだ。「遊び」が動かす経済は安全で平和的だし、また創造の源泉にもなる。遊びの多様さ、深さはその文明・文化がどんな性質を持っているか、多様さをもっているかの物差しになることを忘れてはならない。だからこれらを軽く見てはならないし、また制限もかけてはならない。
 残念ながら社会の最上部にいる人々ほど「遊び」の文化的価値を軽んじる傾向にある。つまり権威者ほど文化的な教養レベルが低いという見方ができる。我が国はそういう傾向がやたらと強い。我が国は「地位があるか・ないか」で文化を判断する、階級を付ける癖がありがちだが、それは愚かなことだ。「遊び」というものを、決して軽視してはならない。「遊び」というものこそ、私たちはしっかり考えねばならない。

蛇足

 書き終えてしばらく経ってからふと思ったけど、これからは本当に「遊び」が重要な意味・意義が出てくるかもしれない。本書のテーマとはまったく関係ないが、ちょっとこの話をしておこう。
 というのも、これから人間はどんどん退化していく。どういうことかというと道具が便利になりすぎて、人間が頑張らなくてもいい。鍛えなくてもいいし、勉強しなくてもいい。仕事も(まだそういう社会は来てないけど)大半がロボットがやってくれるので、人間は簡単な管理作業だけをしていればいい。人間は何も考えなくても何も頑張らなくても、楽に生きていくことができる時代がやってくる。
 でも人間は自分の能力がどんどん劣っていること、バカになっていくことに気付かない。最新のスマートフォンなんか片手に持ち、それでなんでも調べられるし、なんでも知ることができるから、さも自分がとても賢いのだと勘違いし、勘違いし続けるだろう。
 文明が発達しすぎて人間の能力が落ちていき、つられて文明が衰退していく……なーんてSF的なお話がもしかしたら100年後……いや50年後くらいには現実に起きる可能性がある。
 話は遡って1万2000年前農業革命が始まり、これを境にはっきりと人間の脳容量は小さくなった。200年前、工業化が始まり、あまり言われてないけどきっと脳容量は小さくなっているんだと思う。
 これから間もなくロボット革命が起きる。人間が何もしなくてもいい社会だ。
 そんな時代が来たとき、人間は何を根拠に体を鍛えたり、知識を蓄えたり、勘の良さを維持したり、芸術の感性を育むのか。はっきりいえば、生きていくためにはそのどれも必要のない時代が来る。今なら学校で学ぶことは将来必要だから……と説明されるが、その根拠すらなくなってしまった未来では、人は何のために勉強したり、鍛えたりするのか?
 その答えが「遊び」だ。「遊ぶ」ために人は体を鍛えたり、勘の良さを維持したり、知識を蓄えたり、芸術の感性を育む。遊ぶこと以外にこういった能力を維持しておく意味がなくなる。

 そう言うと、世の知的エリートはこう言うのだろう。
「遊びにそんな意義あるわけないだろ」
 私はこう言おう。
「それはオメーがその程度の遊びしか接してこなかったからだろ」
 と。
 つまりパイディア的な遊びしか知らない。どの文化圏へ行っても、権威ある者ほど遊びがいかにして深められるか、ということを知らない。その可能性について考えようとしない。
 「遊び」も突き詰めていけば一つの「芸」になるし、「仕事」になるし、普遍化すれば「文化」になる。
(例えばゲーム実況も、依頼を受けて料金が発生する仕事となれば、それはもう「職業」として成立しているといえる)
 社会は「遊び」にそんな意味、意義があることに気づかない。それどころか、多分、罰しようとするだろう。遊ぶことよりも、学校での勉強や、昔ながらの体育会系の社会においたほうが身につくことがある……と考えるだろう。
 でも学校なんてものは工業化社会に都合のいい人間像を作るために生まれたものだし、日本の教育に限定するとあれは官僚を育むことを第1目標にしたものに過ぎない。体育会系社会はブラック企業に体を慣らすためにある。知識を育むためというか、むしろその逆で、社会の構造や問題に対して無感覚に、何も考えないようにするため(問題に気づかなくするため)にある。学校で学んだことの大半は社会に出て、何の役に立たなかったでしょ。なんでかって、そういうことだよ。「学校での勉強は将来きっと何かの役に立つ」……いや、ほとんど立たないって。自分で本を読み漁って勉強した方がいい。外に出て様々体験した方がいい。学校という場所が迂遠。

 とはいえ人間は基本的には権威主義だし、それに大多数の人たちは体育会系の世界を好んでいる。すでに権威が与えられたものにしか価値を見ないだろう。
 「本気で遊ぶこと」の意義に気付く人はなかなか少ないだろうし、その意義に気付いた人たちから未来における「人間と文明の衰退」から逃れられるかもしれない。

 前に「物語教養論」というのをちらっと書いたけど、それにも絡む話だ。物語をきちんと読むこと、その奥深さをきちんと知ること、そのためには物語を読む側にも相応の教養が必要だ。物語……それは漫画でも映画でもなんでもいいが、そういったものをより深く知り、深く楽しみ、深い感動を得るためには、きちんと勉強した方がいい。勉強した方が、より物語が楽しめる。勉強した方が楽しめる奥深さがより深くなる。
 だから「遊ぶ」ために勉強する。「遊ぶ」ために体を鍛えて、知識を深めたり、技術を磨いたりする。いつかそういう時代が来るかもしれないし、もうその端緒まで来ているという意識を持つべきかも知れない。


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