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分かりあうためでは無く、相手を知るために対話する① ストラテラ服用日記871日目

主語が大きくなってしまうが、日本人の文化として分かり合う事ができると思ってる節がある。

なので、話し合っても分かり合えない時はとても落胆してしまうし、「どうして分かってくれないんだ!」と喧嘩になることもある。

また、普段の日常でわかってもらえない事が多く、その裏返しということもあるのかなと思う。
こだわりが強い特性を持っていると、なかなか自分の考えを理解してもらうのは難しくて、そのギャップから生きづらさにつながる人も少なくない。

話をすれば分かり合えるというのは幻想だ。
分かり合えない人もいる。
結構いる。意外と多いといってもいいかもしれない。

対話をかじった方でも、この幻想から抜け出せない方も見かけるので、よほど根強く刷り込まれた慣習なんだろうなとも思う。

個人的には、対話を勉強するのであれば、分かり合えるという前提が取り除いたほうがいいと考える。
前提条件は対話の邪魔になるから。

純粋に相手を見れなくなる。

対話に限らず、他人と話すときに分かり合えるという前提を持ってしまうと会話が成り立たなくなる時も多い。

また主語が大きくなってしまうが、日本人は議論して勝つか負けるか結論がでないとスッキリしないようにも感じる。

お互い考えが合わないね、という結論はあまりない。
そして意見が一致できないと、相手を否定することに走る。

寛容性の問題なのか、何なのか?
考え方や主義思想とその人格を同一視している部分がある。

意見は相いれないけど、性格的には好きとかそういうのもあってもいいのでは?と考える。

この部分で言うと、私も主義主張が合わない人とは距離をとることが多いので、自戒も込めて。

ただ、いろいろな場所でお互いに分かり合えるという前提を取り払わないといい対話にならないことは多い。
こちらがそう思っていても、相手が分かり合えるという前提に立っていると話がかみ合わなくなる。

他者の他者性を重んじるというのはとても大切。
明日に続きます。


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