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30年数年前の連絡帳が伝えてくれたこと

私の父は大学の教壇で哲学なぞ教えてる人で、母は看護婦の学校の先生だった。
子供心に両親が教育者であることは誇りでもあった事もあったが大きくなってからは民間の苦労を知らない我が家の偏った情報に嘆くこともあった。『子供の自主性を大事に・・・って聞こえはいいけど、子供が判断できるわけないじゃん?』と成人した僕は笑いながら母に言ったが、母は泣きながら僕に謝ってきた・・・そんな事もあった。

今から30年も前、北海道の田舎の片隅で、共稼ぎしながら子供を育ててくれた両親・・・特に母には感謝している。

色あせた連絡帳

先日、母から僕が子供の頃の・・・幼稚園の先生との連絡帳と小学校低学年の時の連絡帳が見つかったというので、見せてもらった。よく自分も親になって親がしてくれた事を理解できるというが、母の苦労は僕の想像を超えていた。
僕自身は、男親だが二人の子の保育園の送り迎えもしたし、毎日ご飯を作ってるし、宿題も見てるし、もちろん連絡帳も書いてるし・・・妻が数日出張で家をあけても大抵の事はできる自負はある。むしろ、家事・育児は妻にやらせたくないとさえ思ってる(妻はキャリアがある人なのでそれを大事にしてほしい)。それだけ、家事・育児を積極的にやってきた僕でさえも、母の手厚い子育てには敵わないと思った。

我が家は父が大学教授(当時は助教授)であった為、彼の生活の中心は研究だったし、家事・育児はほとんど母が孤軍奮闘していた。東京の恩師のところに数か月いって家を空けたり、学会で世界中を飛び回っていたりもした。今で言うワンオペに近い状況であったと思う。

当時の僕は病弱だった。それはうっすらと記憶がある。
今の僕しか知らない人には驚かれるだろうが、当時の僕は人見知りがあった。4歳から環境も変わったが親があまり側にいないという環境に戸惑っていたのだろうか。母の知人の家に預けられ、一人で幼稚園まで30分ほど歩き、学校の校庭をぐるっと回りながら学校から流れてくる歌・・・小さな鉛筆の歌などを口ずさんでいた事は懐かしく、そして少し寂しい思い出だ。

そんなわけで、親がそばにいなかった。幼稚園・学校の帰りに一人で帰る途中、野良犬をみかけ怯え、上級生に女みたいな名前だとからかわれ、冬には雪で手袋が濡れ指が凍傷しそうになったり・・・穴に落ち登ろうとしても雪が崩れてきて死ぬかと思ったり・・・怖い思いもいっぱいした
家に帰っては、食べるものが無く小2の頃にはすでに水で溶いた片栗粉に鍋にいれかき混ぜて砂糖をかけたり、ホットケーキミックスがある時はレンジで蒸しパンを作ったりしてた。今、小2の息子が勝手に火を使ってたら僕は怒るだろう。でも、当時の僕はそれをしないと腹が空いて倒れてしまう感じだったのだ。母が帰ってくるまで、そんなものを食べ、下の階のお姉さんが弾くピアノを聞きながら本を読んでいた時間の切なさは一生わすれないだろう。

当時の悲しく哀れな思い出は尽きる事がない。
でも、最初に書いたように、僕は母を誇りに思ってた。北見という田舎町で、颯爽と仕事に向かう母に。大きくなって母といろいろ衝突することはあったけど、僕の心の根底にその気持ちはずっと残っている。

で、そんな母がみせてくれた連絡帳。

自分の事が書かれているけど、当時の大人が僕をどう評していたのかは、読んでいてどこか妙にくすぐったくもあった。実際よりも素直な子とみてくれてたみたいだけど、僕が思っていた自分より気弱で自信がもてない子でもあったみたい。東京に引っ越して学級委員とか歴任してそれなりに自信をもてるようになったけど、北海道にいた頃は不安が多かった。とにかく満たされていなかった。それを埋めるかのように甘えそして愛され、でも、子供同士の中では特別な扱いもされるでもなく・・・むしろ他の子にはいつも親がいるのに、僕は一人でやらなきゃいけないと追い詰められていた

不安で、不満だった。

連絡帳には母が当時の僕から気づいた事が事細かに書かれていた。

↑神様と書いてるけど、カトリック系の普通の幼稚園でした。

僕はいい子だっただろうか。
いや、僕は単なるドングリな子供だった。

すっかり忘れていたが連絡帳には、学校に行きたくないから歯医者に連れてけ!と、意味のわからないワガママを主張する僕の姿が描かれていた。そして、それを先生に伝える母の謝罪の言葉に、30年という時間を超えて申し訳なく思った。

そんな感じの5年近くの連絡帳を見返して、僕が思ってた以上に母は本当に大きな愛情をもって育ててくれた事がよくわかった。
母がしてくれた事が僕を形作っているのを感じる。
あの時の僕を、辛抱強く育ててくれた母には感謝という言葉で簡単に片づけられない万感の思いがある。
まぁ、母を困らせたくなくて、高校時代にいじめられてた事とか言えなくて選択肢がどんどん狭くなって生きる事を放棄しようと思ったこともあったが、それでも母より先に生を終わらさずに生きてきてよかったと思ってる。

あの重く鈍い色をした空と、高く透き通る空に振り回されていたあの日の僕が、今、家族をもち、子を育てている。
僕は母のようなやり方はできないが、当時の僕が喜ぶような事、そして今の僕が欲しかった事を彼らに与えようと思って育児をしている。
でも、その根本は、母に守られてきたあの日の自分がいる。

この色あせた連絡帳を読めて嬉しく思う僕がいるように、また数十年後に息子たちも何か感じ取ってくれたらうれしいと思う。

言い尽くされてきた言葉だけども、そうやって繋がっていくものなんだろうな。良い思いも、そうでない思いも。でも、できることなら温かい思いをつなぎ続けたい。そのために出来ることは、まず目の前のことを大事に丁寧に生きていくことなんだろうな、きっと。

終わりに

どこの誰ぞやかも分からない、そこいらにいるようなオッサンの自分語りなんてニーズは無いだろうけど、今年の年始に母に見せてもらった連絡帳がうれしくてこんなnoteを書いてみた。

結婚はオワコン、と言われて久しい。また、この不況で一人で生きるのも精一杯な若者が結婚なんてできやしない、という気持ちも分かる。僕もそうだった。
でも、結婚して、本当にいろいろな事を学ばせてもらってる。これを経験できることは本当にありがたいし、できることなら多くの人が考えてほしいと思ってる。一人の時にはたどり着けなかった思いが見えてくる。

僕は男だから男性目線でみちゃうけど『世の中の女性の多くが男を収入で評価する』なんて言葉に振り回されたりもする。けど、実際、女の人は誠実な男性を評価するし、一緒に協力して家庭を作れる男を求めてる(そりゃ、収入が多いに越したことは無いだろうけど)。
で、実際、収入を求めて結婚した知人は大抵うまくいかないけど、そうじゃない家庭は互いに壁を乗り越えてる感じの人が多いと思う。

結婚が必須の時代は終わったと思うけど、だからって、結婚はムダと一刀両断するのも勿体ないかなーと、おせっかいなオッサンは思うのでした。




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