メタバースで暮らす/#多様性を考える
メタバースで暮らす僕には「苦手なことば」がいくつかあります。今回はそれらのエピソードを通じて「多様性とは何か?」について考えてみます。
■「ジェンダー」
「――本日より社内の敬称は、『〇〇さん』で統一するように」
会社からそんな「お達し」があったのは、つい先日のこと。
性別によって呼び方を変えるのは、性差別を助長する、性的マイノリティへの配慮に欠けるから、らしい。個人的には〇〇くんと呼ばれたいけれど、みんながそうとは限らないか。
ただそれだけでなく、課長や部長といった役職呼称までも廃止になった。(……役職は別にいいのでは?)と思ったけれど、これもダイバーシティ、つまりは多様性だという。
偉い人のことを「さん付け」するのはちょっと抵抗がある。だけど最近はそんな会社も多いようで。いつの間にか時代から取り残されていたみたい。
そんな僕だけど、「ジェンダー」は身近な話だ。
元カノはバイセクシャルで、トランスジェンダーの友達もいる。僕自身、メタバースでは異性アバターで過ごしている。だけど、性のカテゴライズ、つまり分類には興味がない。
それは相手の「性のあり方」が好きで友達や恋人になる訳じゃないから。分類がどうかの前に、みんなひとりの人間だし、ひとの魅力を決めるのは、相手の考え方や感じ方、人柄や人間性だと思うから。
もちろん社会全体で考えたら、ジェンダー平等は大切だし、互いの理解を深めるために分類するもわかる。ただ分類とはあくまでも「手段」のはず。ジェンダーによる不当な扱いをなくすという「目的」の方が大事だ。
■「メタバース」
僕は普段「VRChat」というVR・SNS、プラットフォームで過ごしている。そこにいる”感覚”があって、誰かとつながれる”仮想現実空間”のひとつだ。
好きなアバター(見た目)を選んで、”もうひとりの自分”になれる場所。おしゃべりやゲームはもちろん、ダンスをしたり、絶景を巡ったり、集会やイベントに参加したり、眠ることさえできる。僕にとっては生活そのもの。
そんな没入感のある仮想空間サービスを、最近では「メタバース」と呼ぶけれど、この言葉もちょっと苦手。その理由は「お金儲け」の側面ばかりが注目されていると感じるから。暗号資産とか仮想通貨とまとめて紹介されることも少なくない。
例えるなら、VRChat村で暮らしていたらメタバースという金鉱が見つかり大騒ぎになっている。そんなイメージかな。
……いや違うか。僕は誰かが開拓してくれたVRChat村に住み着いただけ。住民税(という有料オプション)は払っているけれど、自分で開拓してきたわけじゃない。それにここは、未知のメタバース大陸のほんの一部だから。
開拓してきた人(システム開発者やクリエイター)に、お金が還元されてほしいとは思う。でも、僕にとってはあくまで”生活そのもの”。お金儲けの手段じゃない。だからメディアでの扱いと自分の認識にギャップがあって、なんだか変な感じがする。
メタバースには、ジェンダーの話も関わってくる。
VRChatのプレイヤーは(生物学上の)男性が多い。でも人気アバターは、かわいい女の子ばかり。もうひとりの自分になれるなら、好きな見た目に。かわいくなって自由に感情表現したい。そう考える人も多い。僕もそうだ。
なかには機械を使ったり、練習によって女性的な声を出す人だっている。かわいいアバターからかわいい声が聞こえて、かわいい仕草をしていたら。それはもう「かわいい存在」でしかない。性別は関係ないとさえ思う。
でもVRChatを知らない人はどう思うだろうか。男性が女の子になる空間。ときには恋人のような関係になると知ったら。嫌悪感を抱くかもしれない。
嫌悪感を抱くのは自由。でもそれを露骨に表現されたら傷つく人もいる。できるだけ傷つけ合わないためには、どうすればいいのだろう。
メタバースという仮想現実で、物理的な身体から解放されたはずなのに。改めて、ジェンダーの意味を考えている。
■「ヴィーガン」
話は変わるけど、僕の食生活は野菜中心だ。肉や魚も嫌いじゃないけど、めったに食べない。仕事の付き合いで、食事に行ったときに食べるくらい。
別に修行中の身ではなく、単に、野菜や果物の方が好きなだけ。さらには一日一食しか食べないから、自分でも修行僧みたいだと思う。でもこれは、ただ好きでやっているだけ。
でもそんな話をすると、「ヴィーガンですか?」と聞かれることがある。確かに、食生活に限って言えば、近いのかもしれない。でも僕は「動物から搾取しない」とか「地球環境のため」といった、立派な思想を実践しているわけじゃないから。
ヴィーガンを批判する気はない。ただ自分の認識と違う分類をされると、やっぱり違和感を覚えてしまう。それは気持ちの良いものではない。
■「エビデンス」
最後は「カタカナ語」。これも苦手。ビジネス、特に会計用語はやたらと多いのだ。
例えば、”キャッシュフロー”はお金の出入りのことで、以前は資金収支と呼んでいた。”ステークホルダーへのアカウンタビリティ”は利害関係者への説明責任のことだけど。……カタカナ語にする必要があるだろうか。
いちばん苦手なのは、”エビデンス”。これは証拠とか裏付け書類のこと。はじめて聞いたとき「海老」を連想してしまい、困惑したのを覚えている。
カタカナ語はあまり使いたくない。でもそっちの方が伝わりやすいとか、ニュアンスの違いを表現するために使うこともある。コミュニケーションが円滑になるならためらう余地はない。言葉は目的に応じて使い分けるもの。これもひとつの多様性だとは思う。
ただ、知識をひけらかすため、マウントを取るため、わざと聞きなれないカタカナ語を使う人もいる。僕がそう感じるだけなのかも。でも知らないと「勉強不足だ」と言われることさえあるから。カタカナ語は苦手だ。
#多様性を考える
さて、こうして苦手なことばを並べると、ある”共通点”が見えてきます。それは「手段の目的化」と「価値観の画一化」です。
「性のあり方や生き方を分類します」
「ことば遣いや呼び方を統一します」
分類とは、理解を深めるための「手段」ですが「目的」ではありません。ことば遣いや考え方は、それぞれの価値観によって選択するものであって、押し付けられるものではないはず。
多様性という言葉は「いろんな価値観があることを理解しあい、お互いに認め合いましょう」という文脈で使われます。でも実際は「多様性」ということばを都合よく利用して、ふりかざして「相手を思いどおりにしよう」とすることも。
自分とは違う価値観を強要されている。そう感じることは、苦手意識にもつながるでしょう。
嫌悪感を抱くのは自由と書きました。それは、他者の感情はコントロールできないから。人間とは、根本的にはわかり合えないもので。だからこそ、相手の気持ちを想像して、共感しようとします。
そう考えると多様性とは、「理解や受容」というよりも、価値観の違いで傷つけあわないため、お互いが「距離を保てること」ではないでしょうか。言ってみれば、みんながうまくやっていくための知恵や工夫です。
「こういう性のあり方や生き方『も』あります」
「こういうことば遣いや呼び方『も』あります」
それを選ぶこともできますし、もし苦手だと感じるなら、距離を保っても構いません。そんな選択肢の多さが、本来の多様性だと思うのです。
わからないもの、異質なものは恐怖の対象。だから人間は名前をつけて、分類することでそれを理解し、克服してきました。
自分と異なる価値観も同じです。だから急いで分類し、ことばを統一し、克服しようとしているように見受けられます。でもそれは多様性ではなく、むしろ対極に位置するものでしょう。
「よくわからないけど、そういう人もいるんだね」
「それでも、うまくやっていけるようにしたいね」
それぞれの価値観を持ったまま、距離を保っても、同じ社会で暮らせる。こういう「寛容さ」こそ、望ましい多様性だと思うのです。
僕が暮らしているメタバースでは、性別や年齢、容姿、社会的立場も関係ありません。〇〇勢と分類されることはあっても、それぞれが好きなように生きて、好きなように誰かとつながることができます。
そういう場所だからこそ、本当に多様性のある社会が実現できるのではと期待しています。
”多様性”と言われたら、受け入れるしかない。息苦しさを感じてしまう。だからこそ、一歩立ち止まり考える。そんなきっかけになるテーマでした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
<参考文献>
バーチャル美少女ねむ(2022).『メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』. 技術評論社
英司(2018.04.26).「多様性」の本質-決して美しいものではないその概念 | 陽のあたる場所へ-あるミレニアル世代ゲイの随想録-
撮影ワールド:”Mirror In The Sky”/yu_Hisame さん
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