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夢迷人~注射器の変貌~

 気づくと私は広い建物の中にいた。周りの壁は、青みがかった白で、とても清潔感があり、集中力が冴えわたるような感じがした。床にはごみ一つなく、物もきちんと整頓されていた。つけ入る隙がないほど、完璧な空間だ。かと言って、息がつまるような感じではなく、この空間にどこか安心する自分がいた。

 一体、ここはどこなのだろうか――。辺りを見回してみると、そこには白い机がずらっと並んでいる。勉強をしている人もいれば、勉強を教えている人もいて、忙しなく事務作業に追われている人もいる。

 どうやらここは予備校らしい。予備校というと、皆が皆勉強に追われ、息が詰まるようなそんな場所を想像するが、ここは静かで穏やかな心地いい場所だ。叶うものならずっとここで暮らしていたいと思った。

 しかし、そんな平穏な時間は、長くは続かなかった。突然、平穏なその場所に緊張が走った。侵入者が現れたのであった。よく見てみると、手に注射器を持っていた。不穏な空気が漂い始めた。

 侵入者は突如、近くの青年の腕を掴み、注射した。薬を注入していくと、その青年の肌はみるみるうちに血の気がなくなり、真っ白になっていった。やがて、青年はピクリとも動かなくなった。息絶えたようだ。

 あまりにも突然で、あまりにも一瞬の出来事だったので、私はいまいち状況が飲み込めずにいた。ひどく混乱していた。ただ、そんな私でも一つだけわかっていたことがあった。

 逃げなければならない――。

 まだ頭の中が整理できていないまま、私は一目散に逃げた。ひたすら逃げた。逃げているうちに、注射器を持った人の数が増えてきた。最初は2,3人だったはずだが、今では10人近くいる。私は必死になって逃げた。

 校舎内はとても広く、駆け回るのに十分な広さだった。何度も捕まりそうになっては、教室にあった机を踏み台にして、間一髪のところでかわした。そうして逃げているうちにも、何人もの人たちが捕まり、注射器の餌食となった。関取のような大きな体の青年でも、注射されれば一瞬でひっくり返り、びくとも動かなくなった。

 気がつくと、逃げ回っている人の数はだいぶ減っていた。50人くらいはいたはずだが、いつの間にか注射器を持った人と同じくらいの人数しかいない。この人たちは私たちを皆殺しにするまで、注射を打ち続けることを止めないだろう。

 このままでは本当に殺される。もっと遠くへ逃げなければ――。

 私は急いで教室を飛び出し、別の教室へ駆け込んだ。侵入者は一見、予備校内の人たちと区別がつかなかったため、この教室にも注射器を持った人が潜んでいるのではないかと、とても不安になった。目を凝らして不審な人物がいないか、最大限に警戒した。

 どうやら、ここはまだ安全らしい。生徒や職員たちが穏やかに過ごしている。やっとほっと一息つける。張り詰めていた気が少し緩んだ。

 だが、そんな穏やかな時間は一瞬にして崩れ去った。注射器を持った複数の不審人物が周辺をうろうろしているとの情報が入って来た。ここも危ない。不審者たちがここを占拠するのも、私が捕まって殺されるのも、時間の問題かもしれない。

 私は不審者たちに見つからないように物陰に身をひそめ、周りにできる限りの注意を向けた。遠くの方で不審者らしき人物がいるのが見えた。本当は信じたくなかった。この場所だけは安全であってほしかった。私の見間違いかもしれないと、わずかな希望もまだ持っていた。

 だが、現実は残酷だった。私の目の前を注射器を持った不審者が通り過ぎた。この目ではっきりと見てしまった。その後、何度も何度も私の目の前を不審者たちが通過した。私はその度に、いつ見つかってしまうかという恐怖心でいっぱいになった。

 時間が経つにつれて、不審者たちが私の前を通過する間隔が短くなっていった。その様子は、私にもう逃げる術は残されていないことを暗示しているかのようだった。また、不審者が私の目の前を通過した。今回も見つからずに済んだと思った。

 しかし次の瞬間、私に気付かなかったはずの不審者が勢いよく振り返り、私を凝視した。そして、不気味な笑みを浮かべた。その顔はこの世のものだとは思えなかった。笑った時の口の両端は目の真下の方まで裂けていて、目は全く笑っていなかったはずなのに、瞳が見えないくらいに細く切れ長であった。そんな、人とは言い難い容姿をした不審者がだんだん私に近寄ってきた。

 私は恐怖で固まった。逃げようという意思は私にはもう残っていなかった。抵抗する間もなく、私はその不審者に捕まった。

 ああ、私の人生もこれで終わりだ。あっけなかったな……

 針が腕に刺さった。チクリと針が刺さった痛みは何とも不快だった。みるみるうちに薬が注入されていく。大きな苦痛を伴うものかと思ったが、薬を注入されても痛くも、苦しくもない。苦しまずに死ぬことができるのなら、案外こんな死に方も悪くないかもしれない。

 だが、そうではなかった。薬を注入されても、私はまだ生きている。体には何も異変が生じていない。一体どうしたのだろうか。他の人たちは一瞬で死んでしまったのに、私はなぜか生きている。

 私は状況が飲み込めていなかったが、私に注射をした不審者はもっと理解に苦しんでいた。とにかく、今のうちに逃げよう。早くここから脱出しなければ――。

 私はまた、逃げる気力が湧いてきた。「何としてでも逃げ出して、また平穏で自由な日常を取り戻すんだ」という希望を取り戻すことができた。不審者が呆然と立ち尽くしている隙に、私は全速力で駆け出した。

 ここを脱出するには、出口を見つけなければならない。どうやらこの建物は高層ビルのような構造らしい。まずは下の階まで行く必要がある。私はひたすら階段を駆け下りた。その間、何度も不審者と遭遇し、何度も注射を打たれた。それでも私は、何事もなかったかのように生きていた。

 死なないと分かっているだけで、無敵になれた。でも、その一方で恐怖心が消えることはなかった。針を刺される恐怖はもちろんあったが、抜け出せずに一生閉じ込められた末に待っているものが何かを考えると、恐ろしくてたまらなかった。

 もう何階分の階段を駆け下りただろうか。何階下りても終わりの見えない階段を前にして、私は途方に暮れていた。うな垂れながらため息をついていると、階段の隅の方から人の声が聞こえた。注射器を持った不審者だろうか。しかし、声の感じは不審者を連想させるような嫌な感じとは違い、むしろどこか心地いいとさえ思った。わたしは声のする方に歩み寄った。

 「あなたも逃げてるの?」

 私に話しかけてきたのは、小柄で目のクリッとしたボーイッシュな若い女性だった。死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされているというのに、彼女は穏やかで物腰柔らかな雰囲気を醸し出していて、一緒にいるだけで心が安らいだ。特別多くのことを話したわけではないが、私は完全に彼女を信頼していた。そしてまた、彼女も私に対して、全面的な信頼を寄せてくれていた。

 「一緒に逃げよう」

 彼女は落ち着いた、しかし力強い声で私にそう言った。私は彼女の提案を快諾し、行動を共にすることにした。私は彼女と共に、再び先の見えない階段を駆け下りた。長く果てしない道でも、彼女とならきっと最後まで駆け抜けられると思えた。彼女は私の希望そのものだった。

 彼女の名前は「ひかり」というらしい。名前の通り、光のような存在だと思った。彼女がいてくれるだけで心が晴れた。どんな困難でも乗り越えられると信じることができた。

 そんなことを思っていた矢先、再び辺りが不穏な空気に包まれた。注射器を持った不審者が現れたのだった。私たちは捕まらないように、必死の思いで駆け回った。階段を駆け下りて、駆け下りて、駆け下りて・・・いつまで駆け下りても全く尽きることのない階段と、全く足を止める様子もなく私たちの後を追いかけてくる不審者のおかげで、私たちはクタクタだった。これ以上走り続けるのは限界だ。どこか隠れられる場所はないか、階段を駆け下りながら探した。

 すると、階段の途中にトイレを発見した。トイレの中で、何か武器になるようなものを見つけることができれば、私たちは助かるかもしれない。私たちは急いでトイレに駆け込んだ。そして、トイレのドアを閉めて少しだけ休憩しよう――。

 しかし、考えが甘かった。いつの間にか、追いかけてくる不審者は手を伸ばせば触れられる距離にいた。ドアを閉めようとした途端、不審者の手がドアを押さえた。私たちは力の限り、ドアを押して不審者を追い出そうと頑張った。あともう少し、あともう少し、あともう少しで不審者を追い出せる――。

 ガッタン!

 ドアの大きな音が鳴り響いた。私の目の前には注射器を持った小柄な女性がいた。2人掛かりでドアを押さえていたのに、この小柄な女性1人に力で負けたというのか――。私は、目の前で起こった光景を信じることがなかった。動揺しているうちにも、注射器を持った女性が今にも私たちを捕まえようと迫ってきていた。

 「もうこれで5回目だ!あんたらは一体何なんだよ!」

 この奇妙でどうにもならない世界に私はうんざりして、気がついたら叫んでいた。あまりの大きな声に、私自身も驚いた。

 「そうか……じゃあ、いいものを見せてやろう。おまえ、ついて来い。仲間にしてやる。」

 私はひどく動揺した。注射器女は私だけに言った。もし、私が不審者たちの仲間になったらどうなるだろうか。私の身の安全は保証されるだろう。注射器の謎や、この建物の情報を得ることで、自由の身にだってなれるかもしれない。

 しかし、私が仲間になったら、ひかりはどうなるだろう。今回は助かっても、また別の不審者に追いかけられて捕まってしまうかもしれない。ひかりが死んでしまうのは嫌だ。彼女には生きていてほしい。私が一緒にいて支えになりたい。守ってあげたい。

 だけど、このまま恐ろしい不審者たちから逃げ続けるのはとても怖い。できることなら助かりたい。それに、この注射器女からの誘いを断ったらどうなるだろうか。この場で、ひかりは注射を打たれて死んでしまうかもしれない。

 葛藤しながら、助けを求めるようにひかりの方を見た。すると、ひかりは私の目を見て、優しく微笑みながら頷いた。

 ――行ってきなよ!

 勝手な解釈かもしれないが、そう言ってくれている気がした。

 ――すぐ戻るから、必ず無事で待ってて!

 私はひかりに目でそう伝え、注射器女とその場を去った。

 注射器女の後について歩いていくと、いつの間にか、今までいた建物の外に出ていた。外では注射器を持った人たちが行き交っていた。私を引き連れている注射器女と注射器を持った他の人がフランクに挨拶をしたり、冗談を言い合ったりもしている。この人たちに心はないものだと思ったが、普通に生活している人たちと何ら変わらないのかもしれない。

 間もなくして、文化会館のような大きな建物に着いた。中に入ると、赤いカーペットが一面に敷かれていて、とても豪華な感じがした。慣れない風景に戸惑いながらも中に進んでいくと、博物館にあるの展示品のように、ガラスのケースに覆われた注射器がズラリと並んでいた。

 すると、展示された注射器の奥に立っていた女性が、私に話しかけてきた。

 「あなたにはこれを逃げ回る人々に打ってもらいます。私達と同じことをするんです。今からあなたは私達の仲間ですよ。」

 これで私の身の安全は保障された。私はとても安心した。肩の荷が一気に下りたような気分だった。でも、何か忘れている気がする。とても大切な何かを――。

 それが何かを思い出せないまま、私は注射器を持って元いた建物へと向かった。注射器は所持する側にとっても厄介なもので、その扱いには悪戦苦闘していた。すると、何やら1人の女性が私に近いづいて来た。何の用だろうか。

 警戒しながら目を凝らして見ていると、私はその女性の正体に気づいた。私がひそかに想いを寄せている憧れの先輩だ。よく見ると、先輩の手には注射器が握られている。どうやら先輩も私の仲間であるらしい。

 「注射器に怯えていてはだめ。しっかり握って狙いを定めて打つの」

 先輩は親切にも、注射器の扱いに戸惑っていた私にアドバイスをするために、わざわざ私のところまで来てくれたのだった。私は心から嬉しくなった。私の頭の中は先輩でいっぱいになった。先輩と一緒にいられる時間がただただ心地よくて、この時間がずっと続けばいいと思った。

 私はもう、忘れていることがあるということさえ完全に忘れてしまった――。

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