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継続か断絶か【意識の反逆】

この地上に生を受けて、
私たち人類は数百万年をそこで過ごしてきました。
そして幸か不幸か今もなお、どうやらこうしてそこで目覚めているか眠っているかしているようです。
私たちがそう感じている本体は、おそらく「意識」と呼んでいる何か大きな集合体であるように思われます。

その意識は、一定数の鼓動を繰り返しているように思われます。
ちょうど私たちの肉体の、その生を維持するために、心臓が、脈が、リズムを伴って鼓動しているごとくです。
つまり、それは大きな生命体であることを示しています。

だから、私やあなたは、時折、あるいはうっかり「私たちは」「我々は」「人類は」といった表現が口をついて出てくるのでしょう。
私や、あなたは、すなわち人類の代弁者であり、その苦悩であり、喜びであり、希望である。
いや、あなたこそが、あなたのみが人類そのものである。
つまり、「人類」とは、漠然とした集合体ではなく、あなた自身を指します。
違いますでしょうか?
個は全体が無ければあり得ません。
全体は個が無ければあり得ません。
個は全体です。


すべてを疑うことは自分自身を見ること

あなたは、今これを読まれています。
読んでいるものは、読まれるものです。
あなたは読まれるのふさわしい方だからこれを読んでいるのです。
(私が高みからそう言っていると勘違いしないでください。これから、あなたは、今までのように何かを読むのではなく、あなたご自身を読んでいくことになります)

さて、あなたは意識をあらためて眺めています。
意識の中にいる者に意識の何たるかは不明です。
その中だけが彼の世界だからです。
しかし、あなたは今それを見ている。
つまり、もはやあなたはこれまでご自分が居たその意識の大海から抜け出て、その外にいます。
あなたは、長い間その意識の大海でたゆたい、その渦中で浮沈を繰り返してきました。
しかし、いまやあなたは浜辺に打ち寄せられた流木です。
あなたはすでに、あなた以外の万人がそこで悲喜劇を繰り返している意識の外にいます。

あなたは今、意識という曖昧模糊とした存在から一歩踏み出て、それを眺めている。
そうすることで、あなたが当たり前に普段行動したり考えたりしていることを黙って見遣ることができる。
あなたがこれまで生きてきた、そして生きている、さらに生きていくであろう人生のレールを検めることができる。
良いも悪いもない。
可も不可もない。
ただありのままにそれを眺めること。

それを別な言い方で表せば、「自分自身を見る」ということかもしれません。
私たちは普段、自分自身が見ている対象物には関心があっても、その自分自身には関心を寄せません。
自分を疑わないからこそ、それを見ることもないわけです。
しかしここで必要なのは、あなたご自身に疑いを持つ目線です。
あなたの見ているもの、
あなたの聞いているもの、
あなたの感じているもの、
あなたの考えているもの、
あなたの読んでいるもの、
あなたが気にかけなかったもの、
あなたそのものに。

私たちはこれまで「疑う」という行為は何かしら良からぬものだと教わってきました。でも果たしてそうなのでしょうか? 
疑わないということは鵜呑みにするということです。
疑わないということは見ないことです。
疑わないということは素通りすることです。
疑わないということは魔法です。
疑わないということは麻酔です。
疑わないという行為を疑わなくてはなりません。

そこに見えてくる人類の意識、すなわちこれまでのあなたの意識というものはいったい何でしょう?
それはどんな様をしているのでしょう。
それを「集合意識」と呼ぶのか「集合的無意識」と呼ぶのか、はたまた「潜在意識」でも何でも構いません。それは個人の意識の深層部(という曖昧な表現は適切ではないですが)に流れる巨大な渦のようなものです。
一本の木に例えれば雨風に翻弄される枝葉ではなく、幹やさらに深い根っこの部分です。しかも、竹のようにその根っこは別な個体と通底しています。

すると、あなたはそこにある驚くべき事実を発見します。
集合意識の不可抗力的な力とでもいうのでしょうか、
あなたの意志の是非にかかわらず、あなたが半ば強制的に、有無を言わさずに生きている事実。
それも、人類がみな一様に同じような方向を向いて、同じような歩を進めている事実。
生きているというよりも、むしろ流されているといった表現が適切なような・・。

それは、これまでのように生きていくという自覚、あるいは無自覚です。
継続です。
昨日と同じような今日を
今日と同じような明日を
ただひたすら「継続」する。
自らに心地よい物事を受け入れ、それを正当化する。
そうでないものは排斥し、それを誤りとする。
そのようにして、自らの殻にひびを入れないように、警戒しながらよそ様と同じように生きることにほかなりません。


全体主義はすでに集合意識に巣食っている

実に偏頗な、一過性の、偏執狂的な断片。
それが大方の言ういわゆる「人生」です。
だれしもが、どこかどなたかの言う「こうあらねばならない」という生き方を生きているからです。
どこかどなたか偉い方の教えを励行する段階で、それは永遠に苦行です。
(私がそう言わずとも、言わずもがなで当人が自覚しているはずです)
それは、囚われの継続です。
自ら作った牢獄に自ら入ることを指します。
そこに何の新味も躍動も美しさもありません。

継続することは繰り返すことです。
それはマンネリズムです。
ではなぜに人類はそんな堂々巡りを繰り返すのでしょうか?

戦争、戦乱、殺戮、飢餓、強奪、強姦、恐喝、犯罪・・・いまだに続くそれらの恐怖を打破しようと知恵を絞りつつ、この数千年間、人類はその恐怖をかえってより深く、濃く、さらに拡大する歴史を繰り返してきました。
それはさながら”角を矯めて牛を殺す”さまです。
隣人に何をされるか分からない。
よそ様の子供に気軽に声をかけることは顰蹙もの。
それが現代ですね。

なぜそうした事態を引き起こすのでしょうか?
それは本末転倒のすり替えからです。
本当は、戦争やその他の闇が恐怖を生むのではなく、他人が自分をアタックしてくるだろうという恐怖心が戦争・闇を生むからです。
貧困が恐怖を生むのではなく、黙ってボーっとしていては食えなくなるだろう、他人を押しのけて出世しなくては転落するだろうという恐怖心が、貧困や格差を生むのです。

行動の原動力が恐怖心になっています。

人類は、その事実に気づかないというより、目を背けてきたからこそ、恐怖・闇はますます増大してきました。

しかして、人類は恐怖心というその心的トラウマを別な何ものかで埋めることを思いつきました。
手始めに、人は、慰安や気休め、刺激、快楽、欲しいものを手に入れた満足感などを、「幸せ」と定義しました。
つまりはエゴイズムです。

幸せを考えるときに幸せは決して訪れません。
考えるからです。
考えることが、分断、分裂、対立を生みます。
幸せを「考えた」結果は、慰安や気分転換、レジャー、旅行、趣味、美食、享楽、ギャンブル、ゲーム、金儲け、それにまつわるコバンザメのような詐欺商法、そして人によっては宗教や哲学になるでしょう。
しかし、考えた末の結論とは、いつも「部分」であり「過去」であり、それは「膠着状態」です。
だからそれらは気慰めや気晴らしでしかありえません。

部分的な一過性の「幸せ」とは、すなわち不幸を指します。
考えあぐねた「幸せ」は、袋小路です。
そうして人類の意識はある共通の理想主義的なお題目を標榜するようになりました。それが宗教を筆頭にさまざまな文化、そしてそれ以下の風俗的な慣習です。
その内容は言うまでもありません。宗教でよく目にする「愛」「平和」「平等」といった類の理念です。
それが不文律になって久しいわけです。

しかし、それは実は暴力を裏にはらんだ意識の世界での全体主義です。
当然(その皮相的な目で)異端分子と判断された者たちが、社会から追い出されたり、迫害されたりするからです(私たちが他人に共感したり、同情したり、拍手喝采したりするのは、その共通認識へのものですが、その認識は他者との比較と差別を暗に含んでいます。病人や社会的な弱者への同情が暴力であることはあなたもお判りでしょう)。

そういうわけで、いかほど「平和だ」「光輝く未来だ」を念じようが瞑想しようが、一致団結しようが、それら未来がやってくるどころか、さらに深い闇に覆われてゆきます。
これは残念ながら歴然とした事実です。
いつまでも、永遠に「愛」「平和」「平等」を標榜する社会というものが、実体は、その中身は、永遠にもぬけの殻であることは、子供にもわかるレトリックです。
子供がよくやる「ないものねだり」と何ら変わらないからです。

一切は、恐怖心と、それからの逃避です。
そして思い描かれた理想主義のユートピアという空想・妄想が、人類の共通認識になってしまいました。
そしてさらにまた、それがあろうことか「正義」になってしまった。
自らに「正義」などないにもかかわらず。
いや、自らに「正義」などないからこその表看板として。



私たちは麻痺したドリーマーである

人類の意識の波の頂点は恐怖であり、その谷は逃避または慰安で成り立っています。
それの繰り返し。
その寄せては返す波に乗って、
あなたも私もすっかりその場が居心地の良いゆりかごのようになってしまいました。

何百年も何千年も、目の前に突き付けられている戦争をはじめとした狂気・狂乱を、あなたや私は黙認してきました。
許してきました。
他人事のように扱ってきました。
なぜそのような非情で無慈悲な、人間離れした芸当が私たちに可能なのでしょうか?

そうです。
「愛」だの「平和」だの「神」だのの妄念──その人類の神憑り的集合意識が、そうあることを容認してきたからです。
さながら夢遊病患者の思い描く夢のように、です。

何が起きても、何があっても私たちは神に守られている、その愛ある懐に抱かれている、眼前の修羅場は幻想で、”やがていつか”私たちは神の国に入ることができるのだ、といった類の戯言。
もしくは、なぜいまここが神の国であることに気づかないのか! などとまくしたてる居直り。

その”やがていつか”は数千年の時を経て、いまだに”やがていつか”のままです。
それは迷夢です。
そうでなくて、それは何でしょうか?

あなたは、ご自身の姿そのものである「人類」の意識の奥底をざっと俯瞰してきました。
それは誰しもの期待通りの発展的、創造的、意欲的なものではなく、暫定的で、惰性的で、繰り返し、蒸し返しの反復、そしてそれらの継続です。
恐怖という足元に付いた火を顧みることもなく、消し去るでもなく、ひたすら上を、天井を、天を仰いでは、そこに希望の灯という幻影を追いかける。

それがあなたや私、そしてお隣さん、全人類の心の奥底におろしている意識のアンカーです。
それは、過去にしがみついていたい、執着していたいといった心理から来ています。今を生きる眼前に恐怖が立ちはだかっているからです。

あなたは、ここでひとつの大きな問題に出くわしました。
また、そうであってほしいものです。

それは、継続か、はたまた断絶かといった問題です。
継続ということは、これまで通りの意識の継続です。

すなわち、朝起きて洗面を済ませ、(昨日もそうしたように)TVのニュースに心をかき乱し、株式や為替相場の高下に一喜一憂し、無意識に満員電車に吸い込まれ、職場では上司の理不尽な指示に黙って従い、右を向けと言えば向いたまま振り返らない部下に腐心し、挙句部署の業績不振に頭を悩ます・・といったことの「継続」です。
そしてその世界でのルールは、そうした日常に決して疑義を挟まないということです。

しかし一方で、そうした分厚い殻に内部からじわじわと圧力をかけるように抵抗する意識があります。
それはやがてその殻にひびを入れ始めます。
恐れ知らずの意識です。
そんな意識の萌芽が次第に見られるようになってきました。

すなわち、そうした「継続」、マンネリズムにほとほと飽きた人。
心が乾ききってしまった人。
何を見聞きしても心動じない人。
いい加減「善男善女」ごっこに辟易してきた人。
いい加減、外の景色の愕然とするまでのあまりの陳腐さと、その澱みに思わずカーテンを閉じたくなる人。
いつの間にか私たちの「代弁者」でもあるかのような語り口で、センチメンタルな「正義」を堂々と振りかざすTVやマスコミにあきれ果て、むしろそのけだもののような無神経さに寒心する人。

ただ右のモノを左に、左のモノを右に・・・その繰り返す様、継続する様が見え始めたらこのゲームは終了です。
出来事の是非や真偽ではない。
それら全体、それらを生み出している私たち人類の集合意識に終止符を打つことが、ちらっとでも脳裏をかすめたならば、人生は終了に近いのかもしれません。
それは、私たちに馴染み深い言葉でいえば「死」と同義だから。
酷い現実はそのままに、ただ白日夢のように胴慾が思い描いた夢を見せられ、眠り姫、眠り男のような生を生きている自分。
・・・それに気づいたらこの意識はすぐさま爆発することでしょう。


「今」には考えがないから執着がなく葛藤もない

あなたは、今すぐに自分を全否定できますか?
つまり、あなたがいま現在固執しているその理念・信条をすっかり捨て去って、何もない、どこにもよりどころのない、無垢なあなたになれますか?

「人生とは○○である」
「人道的、霊的な意味でも○○すべきだ」
「○○こそ賢明な生き方である」
「○○に幸せがやってくる」

といった諸々の囚われを離れて、何も持たない、弱弱しいあなたでそこに立つことができますか?
その「○○すべき」という信念こそが、あなたご自身を、また周囲を、混乱と闘争の渦に巻き込む元になるものであることに気づけますか?
どんなに偉大な人物であろうが、その思想・言動をご自分の指針にされている限り、あなたは決して自由になれないことに気づくことができますか?

あなたは何かしら執着を持っていますか?
それをできれば避けるべきことだと思っていますか?

あなたは、その総革張りの数十万もするお気に入りのソファーを今すぐに捨て去ることができますか?
あなたの審美眼で選んだそのマイセンのティーカップ、
結婚記念日に指にはめた数カラットのダイヤの指輪、
丹精して育てたバラのガーデン、
命の次に大切な愛蔵書、
いやいや、それらの何十倍も大切なかわいい子供たち、
苦楽を共にした伴侶、
思いでいっぱいのマイホーム
苦労して手に入れた会社でのポジション、
レカロシートでドレスアップした自慢の愛車、
いや、セールで買った安物の箸の一膳でさえ、

それら一切合切をたちどころに捨て去ることができますか?
「OK」と今すぐに。
それとも、これまでのようにそれらを奪われないように、失わないように、傷つけないように、守るようにと、神経を張り巡らせながら生きていきますか?
「人生に執着は不要」
などと大言壮語しながらも、あなたはそれらを捨て去ることができますか?

全否定とは、自分自身さえをも否定することです。
そしてそれなしには執着は生涯あなたに付きまといます。

このことが「死」ですね。
それは生物学的な「死」ではありません。
「生」が、執着とその関係性に基づくものであれば、それら一切を手放すことが「死」です。
ここでいう「死」とは別名「自由」であり、「静寂(想起しない世界)」であり「愛」であり「慈悲」でもあります。
生物学的な死は、万人が経験できるものですが、果たして生きている間の死は可能なのでしょうか?

先ほど、「意識に終止符を打つ」と言いましたが、意識は決して終わらせることはできません。個人が死んでもです。
意識は永遠に継続するものです。

ただし、意識は書き換えることが可能です。
いや、少しづつ、それは書き換えられて行っています。
それは、映画のようにタイムマシンで過去にさかのぼって現在のあり様を変えるとか言ったことではありません。
「今」を変えるだけで一切の過去・未来が変わります。
なぜなら、世界には「今」しか存在しないからです。
「今」は考えません。
考えないから時空が存在しません。
時空が存在しないから一切の関係性から解放されています。
解放されているからそこに一点の執着もありません。
そして、執着がないからこそ葛藤もなく、すべてから自由です。
それこそが創造の原点です。

「今」という世界は、いかなる問題も惹起しない時空もない世界です。
しかも、始めなきはじめからの「過去」と、終わりなき終わりの「未来」が同軸に存在しています。
過去と未来、つまり時空は、人間の「考え」が作り出したものです。
しかしながら、「今」にはそれらがありません。
そして「今」こそ、この広大無辺の宇宙のすべてですから、それがふとした弾みにどこかに飛んで行ったとか、死ぬことで消え去ってしまったということはありません。
私たちは「今」に生きているのですから。


それ以外はすべて迷妄

言葉というものは、魔物です。
それで人を活かしも殺しもします。
まさに活殺自在です。
卑近な例でいえば、SNSなどでの度を越した誹謗中傷が芸能人を死に追いやった例など枚挙にいとまがありませんね。

では、言葉は実在しますか?
言葉は概念であり、観念です。
それ自体に実体はありません。
人は言葉を通してその背景にあるイメージを想起します。

言葉は、存在を限定します。
「○○だ」
と言った瞬間に、その存在は、何か別なモノ、狭いモノに限定されてしまいます。
空の雲や、森や、湖の美しさを「○○だ」といった表現が、すべてを台無しにしてしまいます。
ちょうど、いかに優れた画家が一本の柿の木を描こうが、そこにあふれるような生命力、それのみなぎった柿の実や葉の色を表すことができないのと同様です。

そんな限定的な言葉でもって私たちは「意志疎通」をしています。
そんな危うい言葉をつなぎ合わせて私たちは物事を「考えて」います。
寝ても覚めても一日中です。
それがやがて「思想」やら「信条」やらに発展してゆきます。
果てしない過去から続くそれら様々な個人の思い込みのあれやこれやが「集合意識」として堆積しています。
それがあなたであり、私です。

思考は軽薄か、さもなくば狡猾です。
それはまるで犯罪者のようです。
ちょっとした出来心で犯してしまった犯罪には、まだ自責の念があります。
しかし、絶対に譲らない信条や信仰、○○主義といったものになると、それはさながら完全犯罪を目論んだかのような警戒態勢を取ります。
彼は様々なアリバイ(口実)を用意し、反駁のための理論建てすらします。


さあ、私のお話はこのくらいにしておきましょう。
実は若いころ(といっても40をとおに過ぎたころですが)、私はこの問題に出くわして、さて、それをどうしたものなのかと悩んだものでした。

すなわち、「人間の知(考える)というものは大したものではない」という事実が次第に大きく立ちはだかってきたからです。
「考える」という自己を形成する唯一の足がかりが、ポンコツだということがもし事実であったとき、それはどういうことを指すのだろうか?
別なアプローチがあったとして、それはいったいどういう方法論を取るのだろうか?

思えば、この宇宙そのものは何も描かれていない白紙のようなものだと想像するときに、そもそもアプローチだの方法論だの自体が小さい。ほとんど意味を成しません。そこに何らかの「正解」や「結論」を求めること自体、単にそのもののエゴイズムの軌跡を残すばかりのようにも思われます。

宇宙に(人間の考えたような)正解があったとすれば、それはある及第点を取らなければ落伍していくようなこの世の学校、もしくは軍隊といったものになってしまいます。
それはガラクタです。

どうやら人間の愚かさがそのまま「ダメ」ということでもなさそうです。
それは、言い換えればまだまだ無限に伸びしろがあるということを意味するからです。
同時に、人間の賢さがそのまま「良い」ということでもなさそうです。
人間の賢さなど、知れたものだからです。

あなたは、今どこをどう切り崩していかれていますか?
それはやはりご自分の考えをもって、外の世界を探査しているのでしょうか?

何をどうしなくてはならない、ということはありません。
すべては自由ですから。




東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。