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あらち【短編小説】

 たとえば血が噴き出たときに何を感じるかっていうと、痛いとか、赤いとか、鉄臭いとかそんな感じなのが大体なんだろうけど、僕はべとべとするなあっていつも思う。
 膝でも指でも肘でも手首でも、切ったり擦ったりして流れた血は、痛みの周辺にねとーとかべとーとかいう感触を味わわせながら乾いた肌を侵食し、細い道や小さな泉を作り出す。
 人差し指で血に触れ、かたつむりの通り道のようにぐるぐると伸ばした。指を離す瞬間には、砂糖水のようなねばつきがあった。親指と人差し指をくっつけたり離したりして、血の粘着力によるかすかな抵抗を確かめた。
 切ったのは左手中指で、縦に二センチほどの切り傷が見え、どくどくと流れる血が掌に溜まっている。右手に握ったナイフを机に置くと、夕日の最期の光が反射した。
 せっかくなので街に出た。
 落陽はすでにビルの向こうに姿を隠し、わずかな残火が空を赤黒く染めていた。薄闇のおかげで指から落ちる血に気づかれることもなく、繁華な通りを縫うように進む。僕が血を落とした所は、かつて誰かの血が落ちた場所だろうか。もう黒ずんでしまった過去の血と、今地面に触れる僕の血が重なり合い、混じり合うことがあるだろうか。さかのぼっていったらどうか。この土地に流れた血はいかほどなのか。街の光は流した血を隠し通している。
 ぼんやりと歩きながら血のことについて考えている。いつから血液は生物に流れはじめたのかとか。いつから僕に血が流れはじめたのかとか。いつから人間は血に繋がりや縁を感じはじめたのかとか。指先から血をぽたぽた落としながら、ねばねばと這いつくばるように足を動かし、頭を動かす。「血」のはじまりを僕は知らないから。
 一時間ほど経っても、血は滴ってやまなかった。僕は知らない。調べる気にもならない。ただ、両親にある日突然言われた、お前は天照大神の血を引いているんだよ、という言葉だけを反芻している。
 嫌な話だった。あまりにも荒唐無稽で、家を出て三年、あらためてどうしようもない親だと思った。簡単に騙され、簡単に騙し、世界を単純化し、一元化してなんとか生きている人たちだ。
 両親は天照大神から自分たちの血がはじまったと妄信している。詳しいことはわからない。わかりたくもない。ただ、はじまりの血を受け継ぐ者として、神話じみたようなことを言うばかりだ。
 自らのはじまりを、僕は考えようとした。受精卵が着床し、胡椒の粒ほどの大きさになる。脳が発達し、心臓ができ、目ができ、手足が生える。肝臓が血を作り出し、やがて骨髄にその役割が譲られる。
 知識としてそういうことは知ってはいても、僕に血が流れはじめた瞬間があるということはどうしても想像できなかった。だから、自分の血は自分で作り出したものだという確信に至れない。血はどこまでもまとわりついて不快感を残した。
 もう一時間ほど歩くと、血は乾いてきてしまった。流すにまかせておきたかった。別に死にたいわけでもなかったが、体の血をすべて入れ替えたかった。ゼロから自分の血を作り出したかった。
 空気の抜けた風船の棒人間を想像する。一本の管を通し、何らかの血液を作り出す装置を設置する。見る間に血が生み出されていき、まったくもって新鮮な、新しい自分が誕生する。
 みんな今ある自分の血を捨ててしまえばいい。そうして自分自身で、自分の血を作り出してしまえ。血縁なんていうのをやめてしまえ。そこから新たに自分をはじめてしまえばいい。
 その時、停電が起こった。ただの停電ではなかった。明るいネオンが消え、ビルの明かりが消え、車のライトまで消えてしまった。
 満月の光だけが光源となっていた。昔読んだ小説を思い出す――月の光にあぶり出され、飴のように流れる、あまたの人間の血。
 かつて流れた大量の血が、月の光の下に暴かれ、曝され、海となってせりあがってきた。再び塞がれていた指の血がほとばしり、海と混ざった。そこには縁などなく、善意も、憎悪も、悲哀も、憤怒も渾然一体となり、人々をさらった。車を流した。コンビニに浸水した。排水口を満たした。
 僕はしがみついていた木から離れて海へと飛び込んだ。血の海は軽かった。両手で力強く血を掻き、泳ぎはじめた。


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