見出し画像

身の代わり【短編小説】

 Aさんが怒鳴っている。私をグズだと言っている。私は私の少し斜め後ろでゆらりゆらりと揺れて、すみません、すみませんと繰り返す。頭を下げるとネクタイが神経質そうに揺れ、擦り切れたスーツが汗ばんだ。おそらく半透明である私は、私とちょうどかぶっているところ、つまり左右でいえば私の右肩から左腕の付け根あたり、奥行きでいえば脊椎にちょうど重ならないくらいのところにいて、今現在、ちょっと存在が危ぶまれているみたいだ。
 私はAさんによって愚鈍の権化のように見なされ、哀れな青い顔に冷や汗を垂らしながら、席に着き、パソコンを操作する。スッスッカチカチカチカチと小刻みな移動とクリックが繰り返され、ファイルを確認する私の眼は瞳孔が開いていた。
 周りの社員は何事もなく仕事をこなし、談笑し、目下の私ほど神経質に手を動かすこともない。クーラーに観葉植物が揺れ、そこに射す日の光をカラスが一瞬さえぎった。このカラスは私が昼休憩に誰も見ていないところでパンをやったカラスで、満たされぬ腹のまま次の獲物を探していた。私のいるビルにとまり、やがて飛び立ち、フンを落とした。そのフンが命中したのが、私が朝通った道の足跡だ。落とした社員証を蹴っ飛ばしてしまい、それがザザっと回転しながらたどり着いたのは、ビルと地面が垂直に交わるところだった。そこは、今まで私が一度も踏んだことのない場所であった。
 西に傾きつつある日に照らされることで初めて私に見つけられる埃が、Aさんからようやく解放された私の指毛にからまった。私はそれを振り払い、背にもたれた。怒られない程度に軽く。
 帰りに社員証を落としたところに行くと、薄暗闇の中でカラスのフンが白く光ってみえた。知らない会社の安い水をかけておく。なにしてる、と不意に声をかけられた私は、驚き戸惑い、警備員から逃げる。警備員は私が粗相を犯したではないかと疑い、水で黒く滲んだ、私が踏んだ場所を見る。彼はそこを踏まない。その時に帽子にフンが落ちたことに気づかない。
 私は息を切らしていた。私の切る風にあおられ、先ほどより少し浮き上がった私は、気の抜けた風船のように私のそばに降りていった。座ることのできない電車では、低身長の私は汗をかいた同乗者の脇のところに不快な顔すら見せずに収まっていた。私は見ているだけで不快だった。
 電車は自らがうるさいという自覚を持ちながら走っており、春から沿線の住民になった学生は、いまだに騒音を気にしていた。その隣りの部屋には、学生たちの深夜の麻雀に頭を悩ませる私がいた。私はコンビニで買った弁当を食べている。割られた箸の血縁のものが、中国でぐんぐん育っている。
 私は冷めてしなしなのフライを口に運んでいる。今日あったことを思い返して、ぽつりぽつりと頭の中で言葉にする。私はそれには耳を貸さない。私の痛覚はここにはない。長く血を止めた腕のように、ゴム質でぶよぶよした触感だけがある。私の心にはすでに血は巡っていない。
 電車が通ると、学生はうるさいわボケと思った。私は声には出ない叫びを聞き取った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?