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勇敢な彼女

「ねぇ。今日はゴリラのおしりでも見に行かない?私、なんだか暖かい陽だまりの下ゴリラのお尻をのんびり眺めたい気分なの。ほら、BLTでも摘みながら。」
起きてきた彼女が白い木目調の扉を開けたと思えば、そんなことを言いながらリビングに入ってきた。彼女の提案はいつだって突然で、脈絡なんてものは存在しなかった。
「ゴリラのお尻?夢にでも出てきたの?」
飲んでいたコーヒーをテーブルに置いて僕は答える。
「ううん。そういうわけじゃないの。ただ目が覚めたらそんな気分になってたってだけ。あなたもたまにあるでしょう。朝起きたらライオンの尻尾を追いかけたくなっていたことが。」
捲し立てるように彼女は言った。
「そんなのあったことないよ。」
「そう。それでどう?動物園。近くにあるのにまだ一回も行ったことないじゃない。」
僕たちはひと月前、僕の仕事の都合でこっちに引っ越してきた。スーパーが近くて、少し歩けば川沿いに桜並木がある。さらに足を伸ばして少し車を飛ばせばコアラのいる動物園がある。2LDKの賃貸マンション。
「そうだね。せっかくの休みだしペンギンの足裏でも見に行こうか。」
僕がそう言うと、彼女は満足気な顔をして段ボールだらけの床を縫って僕の横に腰掛けた。
今のリビングは、部屋に不釣り合いなほど大きなダイニングテーブルと調教されていない厄介なファンのような段ボール箱たちで構成されていた。
このダイニングテーブルは彼女が家具屋で一目惚れして、どうしても欲しいと駄々をこねたものだった。
リビングは食事をするための場所だから。テーブルが中途半端だとリビングが、ひいては家全体が死ぬことになるから。
まるで何かの評論家のような口ぶりだった。
ここまで言われてしまえば僕は彼女の言うことを聞くしかなかった。
そんなダイニングテーブルで軽く朝食を済ませた僕らは素早く準備を済ませてスペーシアへ乗り込んだ。
遊び心溢れる機能美にうっとりしながらそのどこか居心地のいい煩雑とした車内で僕らは歌を歌った。彼女の好きな歌や僕の好きな歌。
僕らの出会いは小さなライブハウスだった。インディーズバンドの記念ライブ。のっけからひとり泣き喚く彼女に、そんなにこのバンドが好きなのかと僕が声をかけた。全然違った。ライブに来る途中サーティワンのトリプルの一番上を落としたらしい。意味が分からなかった。3つ何を選んだのか聞くと、全部バニラだと返ってきた。ファミリアでも食ってろよ。
動物園へむかう途中、彼女が見つけた落ち着いた雰囲気のパン屋でサンドウィッチとホットココアを買った。彼女はホットコーヒーにミルクをひとつ。
砂糖を入れると世界が甘ったるくなるから。遊びはあっても甘えがあってはいけないから。いつもそんな玩具メーカーのお偉いさんのようなことをのたまっていた。
パン屋から少し走らせるとすぐに動物園へ着いた。券売所で入場券を買い、沢山の動物がつくる"welcome"とかかれたアーチをくぐるとそこには人間のための楽園があった。動物達は本当に僕らを歓迎してくれているのだろうか。
ふとそんなことを考えてしまう。けれども恐らく彼らは僕らのことなどつゆしらずお構いなしに日々を生きている。見せ物にされるその感覚は僕には分からないけど僕らももしかしたら、街に飛び交う鳩や雀から見せ物として扱われているのかもしれない。他の動物から見られているということは存外気にならないことなのかも知れない。
僕がそんなことを考えている間に彼女はずんずん先へと進んでいっていた。
「ねぇ、見て。運が良かったわね。」
やっとの思いで追いついた僕へ彼女は嬉しそうに言った。
「本当だ。丁度ご飯の時間だ。」
綺麗な女の飼育員さんが猿山から果物を投げていた。それを猿たちはうまい具合にキャッチして口に頬張っている。お姉さんはこのための練習をしているのだろうか。僕は、餌やりをエンターテイメントに変える飼育員さんのその姿勢に感服してしまった。
それにしても綺麗なひとだった。初めこそ猿を見ていたもののすぐにお姉さんに釘付けになってしまっていた。
その隙にも彼女は僕の隣からいなくなった。
「中々お尻は見せてくれないね。」
猿の隣のブース、今日の目的だったゴリラたちに見入っている彼女へ声をかける。
「そうね。やっぱり恥ずかしいのかしら。」
「ゴリラはお尻を人に見せることを恥ずかしく感じるのかな。そもそも彼らに羞恥心はあるのかな。」
「わからない。でも、私は、ゴリラが見せたくないお尻を見たいわ。もしお尻を見せたがるゴリラがいたとしても私はそのゴリラのお尻を見たいとは思わないわね。」
これも難しい女心に分類されるのかしら。彼女はそう付け加えて笑った。
「きっと女じゃなくて君の心が難しいんだよ。」
僕も笑って言った。
「そうかもしれないわね。」
彼女はそう言って、またその真珠のように真っ白で綺麗な歯を覗かせた。彼女は歯科衛生士として働いていた。夕食後はしまじろうの音楽が流れる洗面所で彼女と歯を磨くのが日課だった。シュコシュコティース。シュコシュコティース。浮雲が妖艶に歌い上げる。聞くたび、ペトロールズに歯磨きの歌を歌わせられるその夢溢れるプロデューサー業に心奪われる。
「ゴリラのお尻はどうしてピンクじゃないのかしら。」
彼女が言った。
「どうしてだろうね。そもそもなんで猿のお尻はピンクなんだろう。人間にも猿だった時の名残だとかで蒙古斑があったりするけど。」
「きっと可愛いからよ。万物は可愛くあるべきだもの。神様はちゃんとそのことが分かっているのよ。」
彼女が真剣な顔で言った。
「そうだね。かわいいがわかる神様で良かったと僕も本当にそう思うよ。」
ところでお昼にしようか。
僕らは近くにあったベンチでさっき買ってきたサンドイッチをひろげた。
彼女はBLTで僕はコロッケサンド。
サンドイッチの好みと同じ数だけ人の趣味嗜好は存在して、けれどもサンドイッチの種類と同じだけそれは限定的だ。
出会いがあれば必ず別れがある。言葉を交わすことが出来ず別れを知らせることも出来ないで、事後的に別れが訪れる動物達と事前に別れを知ることができる我々とではどちらの方が幸せなのだろう。初めから空を飛べなければその幸せを知ることも出来ないように、生まれた時からそうである我々はお互いがお互いその正解を見つけることは出来ないのかもしれない。こんな気持ちのいい小春日和にはそんなことを考える。
春というのは出会いと別れの季節だ。
「ねえ。別れようか。」
僕は彼女の方を向かずに言った。
「どうして?付き合ってることでマイナスになるような、付き合わずにいればプラスになるようなことが今何かあるかしら?」
彼女はいつものように自信たっぷりに言った。
「僕は恋愛や人生をプラスやマイナスでは考えられない。そもそも君とは価値観が合わなかった。確かに、僕は自分と違う価値観を持った君が好きだった。それこそが僕が君に惹かれた理由だった。けれども、それも幻想だった。僕はいつしか君といるとストレスを感じるようになってしまった。それだけでは、いかにも一方的ではあるけれど別れることを考える十分な理由になるかな…」
僕はゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「なるほどね。わかったわ。あなたがそういうのなら別れましょう。私たちはそもそも幸せになるために生きているんだもの。どちらか一方がストレスを感じているのに、そのままその生活を続けようとするのは、その生活を強要しようとするのは、それは、もう一方がもう一方に危害を加えているのと同じことよ。」
ありがとう。僕はそう返して、サンドイッチを頬張った。
僕らはそのあと動物園をひと通り回った後、うちへ帰って、その日のうちに彼女は家を出る支度を済ませた。
「ありがとう。あなたと過ごせた時間は本当に楽しかったわ。また、来世にでも気が変わったらお友達になりましょう。」
「ありがとう。僕も君と過ごせて嬉しかったよ。来世はトリプルのアイス落とさないようにね。」
彼女は笑ってまたね。と一言言って家を出ていった。
ひとりとなった家にリビングのテーブルはあまりにも大きすぎて、死んだ家の気持ちを考えると僕の頬にも涙がつたっていた。

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