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「信念をもって経営する」ことの、正しい意味とは…

前のふたつの投稿を読んでくださった方、ありがとうございます…

抽象的な語り方だったので、少し認識しづらかったかもしれないことを、ちょっと補足しておきます。
私の言った信念の問題は…

A:
「〇〇という問題が、この社会の中にある。だから自分はこの〇〇を解決するために、△△ということをしたいんだ!」という私の信念(事業理念)

B:
上のAのような、(なんであってもいいがとにかく)そういう信念(事業理念)をもって事業主(経営者)になるのでなければ、それは正しい事業主(経営者)のあり方ではないと考えている、という信念

の、2段階(Aを包摂しているB)の構造となっています。

そして前回は、途中で少し交錯しましたが、主題として語ったのはBのほうの問題のつもりです。

もっとも私の場合…どちらも根本的には共通している部分はあって、

それが、、、2つ前の投稿にあったように、

「自分の思い」が強すぎて、自分の視野を狭め、行動を縛ってしまっている…少なくともこれまで、縛ってしまっていた、ということなのですが…

そのことが、少しずつ、メタ的に、見え始めてきた…

その結果、まあ…今、結論として言うと、

Bにこだわるのは、間違いだろうと。たぶん間違いなく、間違いと考えたほうがいいだろうと。いうことに、気づきました。

これを読まれているほとんどの方は、「そりゃそうだろ」と思われると、思うのですが…

しかし、そこが「信念」の怖いところで…
強すぎる信念は、まわりを見えなくさせてしまう。自分の視野を狭めてしまうものなのです。視野に従い、行動までも、束縛してしまうものなのです。

ただ、まあ、シンプルに言うならば…

「他人がどんなつもりで事業をやっていようが、経営者をやっていようが、自分には関係ない」

それが、自明の結論であったはずです。しかし、私の場合は…

まさにこの、「ひとがやってることなんて、自分とは関係ない」という考え方・世界の見方そのものが、

受け入れたくない、賛同したくない…と考えてしまう、認知の構造を持っていたのです。これが、問題でした。

人が何をやっていようと、自分には関係ない…というものの見方は、私には、とても無責任なように、思えたのです。
なぜか?それは、我々誰もが、この同じ社会に生きているから。同じ世界に生きているから。
どんなことであれ、「自分とは関係ない」という態度そのものが、社会に生きる者として(社会から恩恵を受け、また社会に少なくとも何らかの影響を与えている存在として)、責任を感じていなさすぎるように、思っていたのです。

直接的に何かができるわけではないかもしれない。間接的にも、ほとんど何もできないのかもしれない。
しかしそれでも、「だから関係なし」と一蹴してしまう態度…それでは、全く何も、社会はよくならないではないか?何もできなくとも、意識を持っているという人が一定割合にまで増えるだけでも、社会というのは、変わっていくことがある。変わっていくことができる。私にとってそれは、明らかに正しいと考えられることだったのです。ずっと。

しかし…そういう「社会に対する責任」感があまりにも、自分以外のすべてのものに対して、向きすぎてしまっても…

それはそれで、おかしなことになります。
普通の人から見れば、過干渉すぎ…どうしてそんな他人のやることに、「べきだ」「べきでない」という価値観を、さしはさむ必要がある?

「信念(上のA的な信念)に基づく」事業のほうが、「カネをもうけられると思ったから始めた」というだけの事業よりは、よいのかもしれない。
まあそれはそうかもしれないとしても、

信念に基づく事業でなければ意味がないとか、間違っているとまで断じてしまうのは、それはやはり関係ないところにまで首を突っ込みすぎではないのか。
なぜそれほどまでに他人のことが、気になって仕方がないというのか?

その理由が、原因が、自分の中で、わかってきたような気がする…

それはあまりに内面的なことになるので、ここでそこまでを語る必要もなく…

ただ…

世の中には、いろいろな人がいる。

そんな当たり前のことを、当たり前のこととして、時には、あきらめなくてはならないこととして、それは戦うべきところではないと「無視」して、

自分のやっていることに、注力すること。Aの信念だけに向き合うことが、事業主、経営者としての、器の大きさなのかもしれない。

そのように、感じるようになってきました。

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