殻を破って迸る(松永伍一『農民詩紀行』を読む)
松永伍一『農民詩紀行』(1974年 NHKブックス)は、今となってはほぼ半世紀前の著作であるし、「農民詩」といっても、ピンとくる人はほとんどいないと思われる。
現代において「農家」という言葉が残っている一方で、「農民」や「百姓」という言葉がほとんど使われなくなっており、人によっては農民というのは侍や忍者と肩を並べるほどに時代がかった遠い存在だと考えても無理はない。したがって、現時点でそのジャンルに興味をもつ人もほとんどいないかもしれない。ましてや農民詩というジャンルを研究して掘り下げようという人が何人いるだろうか。
しかし、このような「農民詩」への無理解は現代に限られたことではなかったようである。筆者によれば、農民が盛んに詩誌を創って詩を発表した昭和戦前期においても、農民詩というカテゴリーは文壇や詩壇から見過ごされ、階級文学側の批評家たちにさえ正しく評価されてこなかったという実態があるという。その事実は、農民それ自体に対する潜在的な差別意識があったことを示唆するもので、農民が近代日本社会に遍在する権力構造に激しく抵抗した事実は等閑視されている。そのような実態に目を向けつつ、自身も農民出身であり詩人でもあった筆者がまとめたのが、明治以来の農民詩の系譜をたどった『日本農民詩史』という大著であった。
本書はその『日本農民詩史』のうちから、昭和初期という「うねりの時代」に焦点を当てて、再検討している。
そもそも、農民による文字化された詩とは、どのような経緯によって生成したものだろうか。
農民も人間である以上、農を営みながら日々を暮らすにあたって、喜び、悲しみ、怒りなど激しい感情に突き動かされることもあったに違いない。それは原始の時代には「うた」として表現された。しかしやがてうたやことばは階級性を帯びた。日本の歴史において、長らく文字は支配層や有力者のものであり、農民が感情をことばにして、さらに文字に表せるようになるには長い時間を要した。このように農民がことばを獲得し、文字で表現するまでの苦しみは、本書の冒頭に端的に記されている。
農民がうたった詩といえば、晴天の下、田園風景で額に汗して畑仕事をする清々しさというような、牧歌的なイメージを持たれるかもしれない。そのようなものも皆無ではないが、本書が対象としている農民詩とは、そうした生易しいものではない。言葉を使えないもどかしさを突き破って、蓄積された生活感情があふれ出したものである。そこに理不尽な社会への眼差しと、自分たちを支配する権力への懐疑が混ざり合う。
「支配層」からことばの自由を奪われ、生活の実相や矛盾への怒りを表現する手段を持たなかった農民は、大正時代の終わりになってようやく、詩のかたちで表現方法を獲得したのだという。その先駆ともいってよい作品が渋谷定輔の『野良に叫ぶ』であった。先の引用にあげた「ことばが肉体の壁にぶっつかり…」の一節は同書の冒頭文からとられた言葉である。しかし渋谷の詩は、生活の絶望的な実相を描写しながら、生活意識を根底的に見直し、社会構造に向き合うまでには至らなかったという。本書によれば、その後の時代において、こうした問題点を超える作品が生まれてきたのである。
筆者が農民詩の時代として昭和初期を重視する理由として、①労働運動、農民運動、革命運動が組織化され、民衆の自覚が発展した時期であること、②アナキズム、マルキシズム、重農主義などの各種思想が実践の裏付けをもって明確になってきたこと、③大正デモクラシーを背景とする安易なヒューマニズムさえ批判され、独自の農民詩の境地が生み出されたこと、が挙げられている。特に③の点は重要だと思われる。
そしてそれを裏付けるように、この時代の農民たちは詩作の場を求めて、雨後の筍のように雑誌が創刊され、表現をぶつけ合っていた。例えば昭和5年だけでも、先述の渋谷定輔が雑誌『農民闘争』の発行人となったほか、伊藤和らの『馬』が創刊され、『北緯五十度』と『弾道』の同人たちは農民詩について論争し、犬田卯らの『新興農民詩集』、鈴木武らの『農民小学校』、更科源蔵『種薯』、清水房之介『霜害警報』、土屋公平『新しい地床』といった農民詩の詩集や詩誌が刊行された。先駆者が出てからわずか5年ほどで爛熟したといえる。
本書の第一部では、そうした農民詩の展開を追っている。
白鳥省吾が大正15年に創刊した『地上楽園』は、民衆をうたい、民衆のわかる日常語を用いるという詩的革命を目指した。同誌は昭和13年まで続いたが、アナキズムやダダイズムの芸術至上主義的な観点から批判を浴び、もろくも崩れていったという。『地上楽園』のグループは平和であれと願うヒューマニストの集団であり、安定して雑誌を継続できた余裕があり、革命性とは断絶していた。これに参加した詩人の詩集にいわく、
ついで、アナキズムの立場から昭和2年に創刊された『農民』は、犬田卯、石川三四郎、中村星湖、黒島伝治らが参加していたが、内紛を生じて一部の同人がマルキシズムに移行し、一年で瓦解する。第二次、第三次とメンバーを変えながら続き、第三次『農村』に至って、一方では「農村」を本位とする立場からマルキシズムと論争しつつ、他方で『地上楽園』のような楽天主義を罵倒して悲愴感あふれる主張をおこなった。例えば次の如し。
しかし、著者の結論として、この時期の農民詩人は「闘おうとしつつ十分には闘えずに終わった」とでもいうべきものだった。
昭和6年には「全日本農民詩人連盟」によって『農民詩人』なる雑誌が創刊された。その創刊号に掲載された、上野頼三郎による「牧場ニ行ツタ牛ノ詩」は心惹かれる農民詩のひとつであり、著者も洗練度の高さを評価している。以下は、本書での引用を又引きしたものである。
その後、過程は複雑なので省略するが、いわゆる無産者運動は萎縮し、もっとも戦闘的な文芸集団であった「日本プロレタリア作家同盟」は昭和9年に解体に至る。その2年前には五・一五事件、2年後には二・二六事件といった軍人叛乱が起きるという時代であり、対外的危機意識もあいまって戦争の足音が聞こえるなか、国民は大量転向の時代を迎える。「ことばを発見し、それを文字にしようとしてからだを張って闘かった農民も、ある者は戦場にかり出され、ある者は唖のように沈黙を余儀なくされた…権力の強大さが、表現の自由を奪い、論争の自由をも許さず、まっしぐらに戦争へと突き進んでいくのだ」と筆者は結ぶ。
第二部では、全国各地域から八名の農民詩人が選ばれ、筆者が訪問したり、調査した記録になっている。
取り上げられた農民詩人のうち、特に気になったのは和歌山の上政治という人である。この人は上述の『地上楽園』にも参加した農民詩人で、「農民詩人協会」の主催者として『農民詩人』を発行するなど、昭和農民詩の歴史を語るうえで重要な人物といえる。そうした農民詩の真正面を担ったにもかかわらず、その経歴は極めて異色である。彼は母親の偏愛を受けて育ち、農民でありながら農業を父と妻に任せ、机に向かって詩ばかり書いている環境を許されていた。筆者のいうとおり「働かない農民詩人」であり、自身は農業の苦しみに直面していないにもかかわらず、周囲の貧しさを代弁しているという矛盾を抱えていた。最後まで上政治の人間的矛盾に直面していたのは彼の妻だった。この詩人に対する筆者の評価は厳しい。
このような詩は筆者によれば、伊東静雄風の美意識をたたえつつも、貧しさに歯をくいしばって耐えた人の詩ではないとされ、続けて次のように述べられる。
筆者は上政治の自宅を二度訪問している。一度目は本人に取材するため、二度目は本人が亡くなってからのことだった。上の死後、彼の息子は率直に、父親のことを「本箱見るたんびに怨んだものです。兄妹七人いたんですが、みんな怨みました」といい、また未亡人は「好きなことばかりして死んだ主人にくらべ、私の方はこれといって楽しいこともなくて今日まで来ました」と静かに述べたという。
上政治本人の言葉によると、『地上楽園』の白鳥省吾は上に対して好意的だったという。また、上の作った『農民詩人』は、先の上野頼三郎のような詩人の発表の場として機能しており、その面では農民詩史上の功労者でもある。しかし実際の生活において、本分であるはずの農業にはかかわらず、そのため財産を食いつぶして家族を犠牲にした。そうまでして詩を第一として生き、農民詩人のネットワークを作った。この人物の中には、芸術性と生活は対立するのか、あるいは芸術性と権力への抵抗は両立するのか、というような、農民詩の世界がはらんできた本質的な矛盾が凝縮されているようにも思える。
本書は「農民詩」の入門書とはいいがたく、内容を理解するうえでは昭和初期の社会運動についての前提知識が必要なようにも思えた。しかし、現在においてほとんど知られることのない「農民詩」の世界観と、それに携わった人々の生きざまに触れるうえで貴重な材料を提供してくれている。
また、それらの材料がわれわれに示している諸問題は、芸術と生活の矛盾、ことばを以て権力に抵抗することの有効性というような、言語芸術が社会と対峙したときに宿命的に背負う緊張関係にも通底するものであるかもしれない。
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