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カール・ポパーの講演「イマヌエル・カント 啓蒙の哲学者」

 普段購入するのは古本ばかりで、新しい本をめったに買いませんし、ましてや新刊など買わないのですが、このたび岩波文庫からカール・ポパー『開かれた社会とその敵』の新訳が出たとのことで、珍しくこの新刊を購入しました。

 この本は学生時代に、当時出ていた未来社版で目を通したことがあり、その中に歴史と社会に関わる重大なことが書かれているというのは直感できたのですが、当時は内容を充分理解するには至りませんでした。ポパーの該博な知識が次々と披露されることに加えて、きわめて注釈が多く、また後半になるにつれて訳出された日本語が難解になってゆき、理解どころか、おそらく最後まで読み通せなかったと思います。私にとっては興味をそそられる本でありながら、そういう悔いが残る本でもありました。

 このたびの岩波文庫の新訳では、非常に訳文が読みやすく工夫されているという印象であり(まだ四分冊のうち一冊しか刊行されていませんが)、彼がもっぱら批判対象とした「ヒストリシズム」という概念がそのままカタカナ表記されています。未来社版は「歴史主義ヒストリシズム」のようにルビつきだったか《歴史主義》のように記号で囲って訳されていたような気がします。

 ところでこの本には、序論に哲学者イマヌエル・カントのエピグラフ(章のはじめに置かれる象徴的な引用文)があったり、さらにドイツ語版をカントに捧げると書かれていたりして、ポパーのよりどころとして、カントの存在がかなり大きいものであることがうかがえます。そしてそれを強調するかのように、今回の岩波文庫版の冒頭には、ポパーがカント没後150周年の機会に行った追悼講演(1954年)の記録が収録されています。

 この講演の内容が実に印象深く、ポパーのカント愛を感じるものでした。そこに言われているのは、あくまで70年前のポパーが当時理解していたカント像ですし、その現時点での哲学史的な妥当性を検証する能力は自分にはないのですが、訳文の良さもあって、カントについて無知な自分にもわかりやすかったので、ここで紹介したくなりました。


 カントといえば「理性」という言葉を思い浮かべます。早朝の起床、決まった時間に決まった道を散歩するなど、毎日の生活に厳格なルールを定めていたということに象徴される「ガリガリの理性主義者」というイメージをもってしまうわけですが、ポパーのいうカントはそうしたカチコチの「理性主義者」とは違っています。

 カントの死後、友人たちは簡素な葬儀にしようと考えていたにも関わらず、彼の死を惜しんで人々がその家に押し寄せたといいます。ポパーはこうした人々の自発的行動の意味を、人々がカントをアメリカ独立(1776年)とフランス革命(1789年)の理念の象徴としてささげた感謝のしるしであったと説きます。

 ポパーは、カントの理念を「啓蒙」と称し、カントが「啓蒙」の最大の擁護者であったと述べます。そういうカント理解は当時の一般的な理解とは異なっていました。当時の一般的な理解とは、カントはむしろ「啓蒙」を批判したロマン主義的な「ドイツ観念論」学派の創設者であるとする見方です。しかしポパーは、観念論の提唱者であるフィヒテやヘーゲルが、カントの名声を利用してその創設者に仕立て上げたにすぎないと主張します。

 ポパーは、カントが「啓蒙とは、人間がみずから責めを負うべき未成年の状態から抜け出ることである」と述べている文章を引用します。そして、精神の自己解放という理念がカントの生涯のテーマであり、彼の生涯は、その理念を実現させ広めるための戦いだったと述べます。

 ポパーによればカントは当初、ニュートンの物理学と天体力学に強い影響を受けて、宇宙は有限か無限かという巨大な問題に取り組みました。そして宇宙における時間の始まりを考えて思索するうちに、二つの証明に行き着きました。
●ひとつは、宇宙は時間について始まりがなければならないこと。
●もうひとつは、宇宙は時間上の始まりをもたないこと。
 この明らかに矛盾する二つの証明を、カントは〈二律背反〉と名付けました。この〈二律背反〉に行き着いてカントは、宇宙に対してわれわれの考える時間と空間の観念は適用できないという結論をみちびきました。

 ポパーによれば、そこからカントが学んだのは、以下のことでした。
●空間と時間という観念は、人間が事物を把握したり宇宙を把握するための精神的な道具・枠組みにすぎないということ。
●また、それらをあらゆる可能な経験を超えた領域に適用しようとすると、宇宙の時間的始まりをめぐる議論のように、〈二律背反〉にぶつかって困難に陥ってしまうということ。
 しかし、そのことをカント自身が〈超越論的観念論〉と名付けてしまったがために、カントが〈ドイツ観念論〉の創始者として歴史に誤った名を残してしまったのだとポパーは説きます。

 ポパーが言うには、カントは一切の物の実在性を否定したわけではなく、時間と空間に経験的な性格と実在性がないと主張しただけでした。つまり、カントのいう観念論とは、我々が考える物理的な「物」と、「時間・空間」といった概念を区別するために便宜的に用いた言葉でした。カントは「観念こそが全て」(全てのものは思弁であり空虚)などと説いたのではなく、彼の主著『純粋理性批判』で、むしろ空間と時間のなかにあるものは現実に存在すると述べ、全てが観念であるという考え方―いわゆる「観念論」―を「純粋(空っぽな)理性」と呼んで、それに反論していたというのです。

 ポパーは、カントの『純粋理性批判』が示そうとしたのは、純粋に思弁の中にあって観察の及ばない世界においては、常に〈二律背反〉状況を生じるということだったと言っています。カントは、ニュートンの物理学は、ユークリッドの幾何学がそうであったように、観察を繰り返して得られた結果ではなく、空間についての我々の直感的な理解(純粋直感)に基づいていると主張しました。

 すなわち我々は観察から宇宙の理論や法則を導き出しているわけではなく、逆に我々の直感や固有の思考方法によって理論が生まれているというのです。このことは、おそらくポパーがカントの思考法のうちで最も重要だと考えている点だと思われます。「悟性は、その法則を自然から汲み取るのではなく、自然に対して法則を課すのである」というカントの言葉が印象深く引用されています。

 そして、この「自然から法則を得るのではなく自然に対して法則を課す」という逆転の発想こそ、カントが「コペルニクス的転回」という言葉によって表現したものでした。つまりコペルニクスが天動説に行き詰って地動説に切り替えたのと同様の発想の転換であるというわけです。

 ポパーは、カントが観察者、探究者、理論家たちの能動的な役割を指摘したと述べます。彼は、「あらゆる点でカントにしたがうわけではない」という照れ隠しを挟みつつ、「自然を強いてかれの問いに答えさせなければならない」というカントの主張に賛意を表明しています。(「自然を強いる」というのは現代においてはある種の誤解を招きそうな表現ではありますが。)そして、この主張を押し詰めていけば、自然科学を真に人間的な創造行為とみなし、その歴史を、芸術や文学の歴史とおなじく、思想史の一部として取り扱うことができるようになると言います。ポパーが言うには、われわれは宇宙を能動的に探究していて、探究とは、ひとつの創造的な芸術なのです。このくだりからは、科学哲学者であるポパーが人文学と自然科学との架け橋を作ってくれているような、あるいは文系と理系というちっぽけな分断を笑い飛ばしてくれているような印象を受け、個人的には胸のすくような思いで読みました。

 ポパーはさらに続けて、自然科学だけではなく、カントの倫理学も、彼の「コペルニクス的転回」すなわち逆転の発想に基づいていると述べます。カントは宇宙論を人間的なものにしたのと同様に、倫理学をも人間的なものにしたというのです。カントは、道徳の支配者として超人間的な権威に盲目的に服従してはならないとして、「道徳」というものを、人間を超越したなんだかわからない権威から引きはがし、人間自身の手で「道徳」をコントロールすることを説きました。その道徳が正しいかどうかについても、人間自身が全ての責任を負うのです。カントは宗教の領域にまで言及して、どのような神を信仰するかという問題でさえも、自身の判断に委ねるべきだと述べました。

 こうした思索によってカントが行き着いた道徳の法則にはさまざまなバリエーションがありました。上の議論から導かれたように、人間の良心こそが人間の唯一の権威であると主張しましたし、人間性は目的として用いるのであり、手段として用いてはならないといったようなことも述べていました。それらをポパーは以下のように要約しています。

「あえて自由であれ、そして他のあらゆる人々の自由を尊重し、これを守れ」

 ポパーは、カントとソクラテスは思想の自由のために戦った点で共通点があると言います。ソクラテスは、精神を屈服させなかったという点で自由でした。カントはこれに、自由な人々の社会という理念を付け加えました。カントは、どんな人間も自由であるのは、自由に生まれてくるからではなく、みずから自由に決定することに対して責任をもつという重荷を背負って生れてくるからこそだと示したのでした。


 以上、カール・ポパーによるイマヌエル・カント没後150年の記念講演を紹介しました。宇宙論から出発して、そこから導かれた「コペルニクス的転回」の原理を道徳を考えるにあたっても応用し、道徳とはいかにあるべきか、自由が何に基づいているべきかという、カントの思考の道筋がきれいにたどられた講演だと感じました。

 全体として、カントを通じてポパーが訴えていることは、次のようなことかと思います。
●人間のことは超越的な権威に任せるべきではなく、人間の力で決定し、獲得しなければならない。
●自由にはその自由を選択した自分への責任が伴うということとともに、他人の自由をも尊重しなければならない。

 先にも述べたとおり、ポパーのカントへの愛情と敬意が感じられる内容でした。『開かれた社会とその敵』本編では、こうしてカントが獲得したような「自由」概念を奪うように作用している思想方式に対する厳しい批判が繰り広げられています。これは現代においても示唆的な内容と思われるので、引き続き学びながら読んでいきたいと思います。

 



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