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学習塾の追憶

 ある日戸外から、「直径×π(パイ)」がどうだとか、「植木算」がこうだとか話している子供の声が聞こえてきた。植木算!それは30年ぶりくらいに耳にした言葉であった。小学校教育では3年生の算数に出てくるタイプの問題らしいが、用語としては中学受験のための言葉という印象が私の中にはあった。植木算、つるかめ算、仕事算云々という算数の「専門用語」は、学習塾で使われる中学校お受験の特殊用語として私の記憶に書き込まれている。小学校で教えられる算数と、中学お受験向け「算数」は似ても似つかぬ別物といってもよろしい。理数的思考がまったく覚束ない子供の頃、「算数」地獄に日々悩まされていた記憶はいつでも蘇らせることができる。わからぬ対象そのものが理解できず汗ばむという経験を知ったのはあの頃であり、そういう知的な無力感が何らかの糧となったかは言語化しにくいが、今となって無知の知ということをさも分かったふうに言える程度には役立っているのかもしれない。

 人間の劣等感というのはようやく治ったと思ったらすぐに再発する指のささくれのようなもので、やっとそのわずらわしさが消えかけたと思ったら、たちまち痛みをぶり返し、それを延々と繰り返すのである。それが証拠に、植木算なる言葉が引き金となり、そういうささくれのような、学習塾そのものについての苦々しい気持ちが、次々と頭の中に去来する事態を生じた。

 6年生になってからだったろうか、ある日、塾講師に話があると言われて残された。少し切り出しにくそうに話を始めた講師は、しかし単刀直入に、クラスをひとつ下げるかと言った。学習塾では成績順にクラス分けが行われて、授業内容は優秀度(すなわち中学受験における志望校の難易度)に応じて変わる。私は小学校3年生の終わり頃に学習塾に入ったが、たまたま入塾テストの結果が良かったらしく、クラスが二つあるうちの上のクラスに所属していた。4年生、5年生と進級するにつれてクラス分けが細分化され、6年生の頃には人数が増えた関係もあって4~5クラスに分かれていたが、どういうわけか最上級クラスにそのまま残っていたのである。これだけ聞くと自慢めいて聞こえるが、率直に言って、入塾当初からクラス内での成績はほぼ最下位だった。引っ込み思案なこともあって、塾では最古参の一人であるにもかかわらず、後から入塾した活発で優秀な生徒たちからもお荷物扱いだったから、いつなんどき、関西近郊の最難関中学を目指すそのクラスを落とされても不思議はなかった。

 学習塾というのは、とにかく頻繁に試験が行われる。ある日の試験の際、私は一番前の席で、白い紙から間断なく突きつけられる難題に頭を抱えていた。回答に至る何のとっかかりも道筋もないと悩んでいるうちに、ふと、魔の時間帯が訪れる。けしからぬ気持ちが首をもたげる。長机一つに三人の生徒が座っていて、隣の生徒までは50~60センチ程度しか離れていない。少し体を伸ばせば、隣人の答案が見えるかもしれない。これはカンニングではない、ヒントとして参考にさせてもらうだけだと頭の中で子供らしい言い訳をしつつ、首をしきりに伸縮させては回す不自然なストレッチを繰り返していると、いつの間にか目の前に講師が立っていた。講師は珍妙な「伸び」をする私に目を合わせて、何も言わず意味ありげに満面にニヤっと笑みをたたえた。私はその時、自分の思惑が完全に見透かされていることを悟り、ついに答案を盗み見ることは未遂に終わった。この時過ちを犯していたら常習者になったかもしれない。私はこの講師に感謝すべきなのだ。

 クラス下げを提案された時、内心は「ああついにその時が来たか」と思ったけれども、この期に及んでクラスを下げるのは嫌だという変なプライドがあった。私は黙って抵抗の意志を示した。その後、講師からは親にも話があったかもしれないが、私は結局クラス替えを拒否して、無理に最上級クラスに居座り続けた。一度落ちたら落ち続けることが怖かったと言うと、当時の心境をあまりにも美化している。クラスを下げれば元のクラスの連中からは蔑まれる、新しいクラスの連中からも、あいつは落ちこぼれだとバカにされるのではないかと畏れただけである。すでに最下層にいるはずの自分に先立って脱落していった者が何名かおり、私自身はそれらの生徒について何の感慨も持たなかったが、いよいよ自分がそう指名されてみると、自尊心を傷つけられたくない、恥をかきたくないという気持ちが強烈に芽生えた。

 私のクラス下げ拒否は苦々しくも受け入れられたようで、そのまま上のクラスで小学校を終えた。中学受験の結果は、第一志望だった県内の最難関校には合格せず、近隣府県の第二志望の中高一貫校に滑り込んだ。きっと同じクラスの優秀な連中は第一志望に合格しただろう。またこれで他と差がついたかと落胆したが、蓋を開けてみたら、クラスのほとんどの生徒が第一志望校には落第し、私と同じ学校にしか合格していなかった。同級生から、お前は第二志望についてはどうだったのかと聞かれて、塾では成績と同様にマイナー・キャラである私は、何も言わずに微笑していたら、どうやら落ちたと思われて相手は察するように引き攣った笑いで話を打ち切った。塾講師が私も第二志望に合格していると発表したとき皆は、なんだよ合格してたんじゃないかと言い、私は黙って微笑みながら、落ちこぼれの私も君たちと同じだよという、なんとも卑屈な満足で心の中を埋めた。

 もっとも、同窓生となった彼らの多くは大学入試できちんと希望の最難関国立大学に行き、エリートらしい務めを果たしたのに対し、私は大学受験において、またしても滑り止めの私立大学に入っただけで、浪人をする余裕は我が家の財政にはなく、地元を離れて上京することとなったのである。皆が憧れて行くはずの東京に、華々しい気持ちは全く見いだせず、自分は敗残したままだという無念さしかなくて、ただただ都落ちの気分であった。思えば凡人であるにも関わらず、小学校の塾通いでなんとなく入り込んだエリートの競争社会において、常に私は敗けていたのであり、今なおその世界で上昇するでもなく、別の世界で活躍するでもなく、中途半端なままに漂っている。そのような劣等感のささくれが発症するとき、私はいつも中島敦『山月記』の李徴を思い出すのである。この脱落エリートの典型のような男は、人生を賭けた詩にさえも裏切られ、自我を失って獣の世界に旅立った。虎になれるならまだ良いが、私などは蚊くらいにしかなれないだろうと思って、そんな物語を妄想してみたりもした。

 小学生3年生で塾に行くかと親に聞かれたとき、親の期待を暗黙に意識していたとはいえ、通いたいと言ったのは自分自身には違いない。思い出としては苦しかったことばかりだが、成績だけが力となる世界で優秀な頭脳に囲まれて育った経験は、周りに引っ張られる形で背伸びして研鑽するきっかけであったことは間違いなく、現在においては、エリートなる人種の行動原理を理解する手立てともなっている。

 子供の頃、塾に行かないと言っていたら、田舎のことなので中学受験などには縁遠く、地元で一生を暮らし、東京に出て来ることもなかったかもしれない。自分の性格からして、どんな人生でも別の何らかの劣等感に苛まれたには違いなかろうが、それはどんな風に表れただろうか。くだらない劣等感にとらわれている暇があったら現在の人生の充実を画策すべきであるとわかっていつつも、時おりつまらない空想を働かせる。




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