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読書論雑感(芥川の読書量)

 読むのがそれほど早くない。もっと早く読めたらいいのにと、自分の愚鈍さをもどかしく思うことがよくある。300~400ページほどの標準的な中長編の現代小説なら1日で1冊くらいは読み終えるから、スムーズにいけば一時間あたり40~60ページ程度であって、数値化してみるとまあまあ速いように思えるが、読み慣れた人からすれば普通かやや遅いくらいの速度だろう。

 しかも、小説の場合は筋を追うだけの読み方になってしまいがちで、一文一文を味わっているかは怪しいものである。学術寄りの論考のように、逐一文脈を理解しながら読んでいくものになると、格段にペースは落ちて、半分以下になる場合もありそうだ。こうなると、読みたいものは沢山あっても、生涯に残された時間から逆算して、あとどれくらい読書ができるのか、それを肥やしにして生きられるのはどの程度かと、読書に対する打算的な気分が生まれてしまう。徐々に、「面白いから読む」という気ままな考えで向き合えなくなって、素直に楽しむことができなくなる。マンネリの人間関係のようである。

 こうした考え方は読書うんぬん以前に、人生を惜しむという貧乏根性から生まれており、そもそも功利的に考えているということが問題なのは充分に承知しているが、どうにもならない。若い頃ならば、時間を気にすることなく、目についたものを濫読していけばよいと思うが、ある程度の年齢に達した大人ともなれば、読書と人生における他の諸活動を天秤にかけて考える必要も増してくる。いったい読書の質と量、そしてペースについてどう考えればよいのだろうか。

 明治文学研究者の柳田せんに「読書の量」というエッセイがある(『心影・書影』所収)。その中に、芥川龍之介は東京から京都に向かう汽車の中で分厚い洋書を5~6冊も一晩で読んでしまって、読むものがなくてあくびばかりしていたという噂が紹介されている。大正末期頃の文学研究者の集まりで、芥川の読書量が話題になったとき、和洋漢の何万巻も読みつくしているに違いないとの話が出たという。読書にかけては自信のあった柳田は、それほど読むことは物理的に不可能だとして、思わず反論してしまう。それに対する証拠を出せと言われて、以下のように、柳田は芥川の実際の読書冊数を即興でおおよそ計算してみせた。

 当時の芥川の年齢が33歳くらいであったが、実際に読書を始めるのが7~8歳ころであり、残り時間は25年分。また三分の一は寝食に取られるので、使える時間は16~17年。さらに、学校や仕事によって半分は犠牲になり、交際旅行などでも時間がとられるだろうから、実質的に使える時間は6年程度と見積もる。6年は72か月で2270ママ日(正しくは365日×6年=約2190日か)、時間に換算して52080ママ時間(正しくは2190日×24時間=約52560時間か)である。和書であれば一時間に50ページ読めるとして、1冊300ページ程度の書籍を一日に4冊読める計算をしている。先の消費時間数に基づいて算出して、和書だけとすれば8680冊と見積もり、薄い冊子もあると考えても、せいぜいおおよそ10000~12000冊程度とした。よって、何万冊も読んでいるということは不可能だと論証したのである。さらに柳田は、さすがの芥川も結局は5000~6000冊というところだったのではないかと後で下方修正している。そのうえで、本当に「読む」という意味で読んだとすれば、その数でも大したものだと評価している。

 なお、現代人の読書量を数値化することも試みられている。10歳から80歳までに読書する平均は1926冊であるという。約2000冊と考えると、読書以外の娯楽がいくらでもある現代にしては、案外多いように思う。芥川が80歳まで生きたとしたら、前述の柳田説を流用して単純に比例計算してみると、6000冊÷33年×80年=14545冊くらいは読めるのであるから、現代人の平均の7倍以上であって、その量の書物の内容を骨肉化していたと考えると、やはり尋常な読書人ではないといえそうだ。ちなみに上記の柳田泉のエッセイでは、執筆当時(昭和38年)の記録で、生涯に約2万冊を読んだイタリア人がいたとも書かれている。もし本当にきちんと読んでいたのだとすれば、超人的な読書量である。

 なお、芥川がすごいのは、それほど読書をしながら書く方も多作であったことだ。下掲のホームページによれば、13年ほどの作家生活で400もの作品を残しているという。年間で30作品以上、月に2~3作を書き上げている計算になる。まるで投打の二刀流を簡単にこなすメジャーリーガーである。
 凡人が芥川になることはできないにせよ、読書人ならぬ著作人として立つには、読むのと書くのにこれほどの時間と労力を割く必要があるという参考になるのか、ならぬのか。

 


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