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ちょっとした路線変更

大晦日までは、いや元旦の時点でも、くっきりとした輪郭になっていなかった。

東大阪で仕事を納めて、神戸に帰り、みかんをつまみながら、編み物をしてはうたた寝をする年末年始。

去年は社会福祉士の学校に通う準備を進めていた。
福祉を学ぼうとしたのは、自分がうつ病で就労施設に通うようになったからだった。

色んな障害、色んな境遇。きっと病気にならず、のほほんと生きていたら出会わない人たちと働いた。
率直に言うならば、自身も家族もQOLなど考えられるレベルではなく、これ以上悪くならないようにギリギリで耐えている人たち。

「学校では習ってたけどさ、実際にそんな人いるんだ〜て思った〜」というサビ管の言葉に震えた。
私たちは百科事典に載った珍獣か何かですか?
資格を持っている人=寄り添える人ではない。
突きつけられた。

何か、私がしなければいけない、できるはずだったことがあった気がした。
1日4時間ほど最低賃金で働くだけでは学費の工面ができず、小論文と願書まで出したものの、進学を諦めた。

それでも、学ぶことを諦められていなかった。
自分に何かできる余地があるなら、道具を持たなくてはいけない。素手ではいけない。
そんな想いを持ったある頃から私はもがいていた。


過去に脚本家だった頃、5年かけて放送大学を卒業した。当時は一番興味があった「人間と文化」コース、ざっくり人文系。好きな言語や、歴史や芸術を学んでおきたかった。

余談だが、私は世界史未履修問題のまさに該当生徒だ。英語の和訳問題で出たBattle of Waterloo自体を知らず、「ウォータールーの戦い」と書いたが、ワーテルローだと知った時は、ちょっと何を言っているのかわからなかった。


現状、3年次編入するならば「生活と福祉」コースか…
と思ったが、しなかった。
ついさっき、偉そうなことを書いたのに、大学で相当の単位を取っていても、レポートの本数が減るだけで社会福祉士の学校の費用は安くならないのだ。
金勘定が勝った。圧倒的に。

私の学びたい気持ちを当時の職場で最も信頼していたサビ管さんと話すたび、
「自分を持つ」ことの大切さを説かれた。
一見、簡単に思えることが難しくなるほど、病状も揺らいでいった。
内省していくうち、心理に興味を持つようになった。放送大学には「心理と教育」コースもある。
そこを押さえてからでも、福祉は待ってくれている。そんな気がした。

のほほんと生きていたら。
のほほんと生きられていたら。


ここで、今年の元日に時を進める。
緊急地震速報の音が響き、震源地から離れた神戸まで、いや、日本中が揺れた。
29年前とは違う、ゆらゆらと、長く続く不快な横揺れ。

そして私は突き上げるような衝撃で目を開けた時、真っ暗だったことを今でも思い出す。
電球のかさが落ちていたのも一因だし、なにより4人家族で並んで寝ていた兄と私を覆うように、棚と箪笥が屋根のようになっていたからだった。
倒れるタイミングが違えば、どちらかは助からなかったかもしれない。

それこそ9歳の私が、のほほんと生きられなくなった瞬間だった。

燃える建物。避難所になった学校。
錯綜する情報。希望を失い、自棄になった大人。

その全てが、私を能天気な陽キャから、過敏な陰キャに変えた。
脚本の学校では、「性格は変わるものではなく、感情が変わるから行動が変わる」と教わった。
阪神大震災は、私が元々どんな性格だったのか見失わせるのに十分な経験だった。

私以上の経験をすることになった子どもたちが、今、北陸にたくさんいる。きっと今は気丈に振る舞っている子もいるだろう。

私もそうだった。水が汲める場所があると聞くと、兄と一緒にバケツを持った。だけど、大人は私たちに子どもであることを強要した。
無邪気になんてしていられない状況で、子どもなりに何とか役に立ちたかったのだ。
もっと幼ければ、もっと大人だったら。自分の年齢を憎んでも仕方がない。

ようやく落ち着いた頃、私は学校に行けなくなった。誤解を恐れずに言うと、大好きだった学校に異物が混じり、汚されたと思った。
いつまで私たちの日常に、無気力な大人が巣食っているのだろうかとさえ。
給食後に歯磨きをする自分たちは許せても、私たちの教室で日がな一日テレビを観ているだけのおっさんが同じ場所で歯磨きをしているのを許せなかった。


保健室の先生によると、震災後不登校になる子どもが増えたという。
明確なエビデンスは示せないが、このような経験が、後々の精神疾患として現れるとも聞く。
ということは、大人になってから辛い想いをする子どもが潜在的にいるのではないか。

もちろん、阪神大震災だけではなく、複合的な理由で私はうつ病になった。

でも、もし。
子どもの頃の私に、今の自分が掛けられる言葉があれば。
……何を言えるのだろう?
求めた言葉をかけてくれた大人がいたら、今の私とは違ったのだろうか。

傷ついた子どもたちに何も出来ないのは、
あの頃の私を救えないのと同義な気がする。
震災前も後も、正義感だけは変わらず強かった。
そう通信簿に書かれていた。

背負いこむのは時に良くない。むしろ悪い。
だけど、私に出来るならば、ひとつでも多くの心が壊れるのを防ぎたい。
そのために心理学をきちんと学びたい。

それがこの国の数多いる被災児童のひとりだった私ができること。

阪神大震災の前日に。












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