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不思議な夢と見知らぬ女性(後編)

*「不思議な夢と見知らぬ女性(前編)」はこちら

あれは小学校高学年の頃だろうか。ある日、神妙な顔をした母親に居間に呼ばれた。
「もうそろそろ、話をしておいてもいいと思って」
母親はそう言って、おもむろに話し出した。自分はあなたの産みの親ではないこと。あなたを産んだお母さんは心に病があって、子育てでノイローゼになったのかもしれない。あなたが3歳の時、あなたを道連れに踏切から電車に飛び込んで無理心中した。お母さんはその時死んでしまったけど、あなたは奇跡的に助かった。その時にあなたは頭に大きな怪我をして、場合によっては20歳まで生きられないかもと医者に言われた。
あなたのお母さんがあなたに手をかけたのは、電車の時が初めてじゃない。お風呂に入っている時に、お母さんはあなたの頭をお湯の中に押し込んで、あなたが大暴れしているのにお父さんが気づいて何とか助けられたの。

もしかしたら、この話をしている時に父親も一緒だったのかもしれない。たぶんいたと思う。母親からでなく「吹田のおばあちゃん」か「明石のおばあちゃん」から聞いた話も混じっているかもしれない。こんな重い話なのにその時の記憶が曖昧なのは、大きなショックを受けたのではなく、「そうか、やっぱりそうだったんだ」と自分なりにすっと受け入れることができたからである。
当時の「踏切」の光景が急に鮮やかに思い出されてきて、繋いだ手の感触や左側にいる女性の息づかいも伝わってきた。父親は「本家」で生まれたばかりの弟の世話をしていて、母親は僕を連れて散歩に出かけたらしい。しばらくするとその辺りが大騒ぎになって、妻と息子が電車に轢かれたと聞いて慌てて病院に飛んでいったらしい。
「そうか、それだけ大騒ぎになったら、きっと新聞社もたくさん来て、あのフラッシュの光は取材のカメラだったんだな」
「電車に飛ばされて川に落ちたんじゃなくて、あの水の泡はお風呂で殺されかけていた時の光景なんだ」
「小学校の時、毎年脳波を測りに病院に行ってたのは、この頭の傷のせいだったのか(僕の右のおでこは1cm近く陥没している)」
「女の人は2回結婚式をするんじゃなくて、あれは新しい母親の結婚式に参加していたのか」
——これまでバラバラだったことが、どんどん頭の中で繋がっていった。

母親は心の病気で入退院を繰り返していたらしい。退院していた時に、踏切の無理心中が起きたということだ。今から考えたら、そのような精神状態の母親と僕を二人だけで散歩に行かせたのは、父親の判断ミスと言えなくもないが、たまには二人だけの時間を持たせてやりたいという親心もあったのかもしれない。
このような形でたぶんバラバラといろんな人から自分の知らない自分の生い立ちを聞かされたが、それでも僕の記憶の中には産みの母親の思い出は一欠片も思い出せない。大抵人間は3〜4歳くらいの時に「人生の最初の思い出」を持つと言われている。僕の場合それは今はなき「宝塚ファミリーランド」に遊びに行って、「吹田のおばあちゃん」に「こっちおいで」と言われて喜んで走って行ったところ、途中でこけて泣いてしまい、「そんなことで泣くんじゃない」と叱られた思い出だ。
母親の再婚と妹の誕生の時期を重ねて考えると、どう考えても5歳ぐらいになる。それまでの記憶がすっぽりと抜けている。いや、抜けているというより、無意識の世界にしまい込んで蓋をしているのだろう。最近の自分が精神的・性格的・行動的に抱えている問題の大元の原因を考えると、その蓋を注意深く開けてもう一度「整理」し直すことが必要ではないかと感じ始めている。

父親の書斎の本棚には、もう1冊アルバムがある。それを開けると、1ページ目から写っているのは今の母親だ。そして、僕と弟と父親。僕達息子達は大きく口を開け、おどけた様子をして体一杯で笑っている。どのページも同じだ。本当に楽しくてたまらないという感じが伝わってくる。
かなり後になってだが、母親と話をしている時に父親との初めてのお見合いの話になった。
「正直、大きな男の子が二人もいるじゃない? 再婚だし、ホントはどうしようか迷ってて。でもあんたが『お母さんが帰ってきた! お母さんが帰ってきた!』ってとても喜んでるのを見て、『この子のために結婚しよう』って決心したのよ」
僕を暗闇から救い出してくれた最初の人は、今の母親だった。
僕は熱くなった目頭が恥ずかしくて、適当な受け答えをして2階へ上がり、自分の部屋で泣いた。


僕が「かすみ」と名付けてほしいと頼んだ妹は「眞子」と命名され、僕はおしめを替えたり2階のベッドへ抱っこして連れていって寝かしつけたり、とてもかわいがった。
「吹田のおばあちゃん」はいろんなところに旅行に連れて行ってくれた。
「健兄ちゃん」も「良子姉ちゃん」も結婚して子どもができ、僕もたまに泊まりに行って、同じようにおしめを替えたり一緒に遊んだりした。
母親方の家族は、僕に「家庭」というものを教えてくれた。
そのうち僕も何の因果か教師になり、荒れている中学校で担任として、国語の教師として必死に頑張る生活になった。子どもの育ち、発達を学びながら、「子どもの側に立ちきる」覚悟を決めてつきあう中で、多くの子ども達が僕のことを支持してくれるようになった。僕は生徒達との付き合いの中で、教師としても人間として成長でき、それが同時に僕の人生の「リハビリ」になったと思っている。
そして、気がついたら寿命と言われていた20歳をとうに過ぎ、還暦手前まで生きてしまった。もちろん、「虐待サバイバー」としての話はこれで終わりではない。今後の投稿の中でまた語っていきたいと思う。

僕の古ぼけた1冊目のアルバムは、今は家の戸袋の奥にしまい込んである。
いつかもう一度アルバムを開け、愛おしい気持ちで胸に抱きしめられる日が来ることを、心から願っている。

*「不思議な夢と見知らぬ女性(前編)」はこちら

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