マガジンのカバー画像

回し読み

130
ぺけぽん
運営しているクリエイター

#短編小説

羽化する

 玄関のドアノブは昨日より冷たかった。ドアを開けた瞬間にひやりとした風が頬に絡んだので、ああ、また季節が変わったなと思う。マンションの錆びついたドアを出ると冷気が濃くなった。息を吸うと鼻の奥がツンとして、僕はジャンパーのファスナーを首元まで あげる。僕は右手に持ったデジタル一眼レフカメラを弄びながら、歩きなれた道をぶらぶらと歩いた。左手はポケットの中にある。  この街に来てもう5年が経つ。小さなデザイン会社に就職が決まって、大学を卒業すると 同時に実家を離れた。誰も知らない

レジに立つ僕

梨を買うことにしたから、お弁当は安い方にした。手の中のざらっとしている梨が妙に重く感じる。前に並ぶおばさんは、梨の何倍もの重さのカゴをレジ台に乗せて、大きくためいきをついた。ぴ、ぴ、ぴ。店員さんは息つく間もなく商品を手にとって、レジに通していく。あろうことか、手を止めないまま顔を上げて、にこやかにおばさんに話しかけ始めた。 「今年は、梅雨が長いですねぇ」 「ほんとうね、いつまで降るんだか」 おばさんは、大きく頷いて笑っている。店員さんも笑うと、髪と名札が揺れた。名札には

欠ける、満ちる、食べる。

中国や台湾では、どこも欠けていない満月を「円満・完璧」の象徴ととらえている。中秋節の満月の日に、家族が日本の正月のように集まり、食事をしながら満月に見立てた丸い月餅というお菓子や、文旦という果物を食べる習慣がある。 引用:https://www.gldaily.com/inbound/inbound2611/ *** 理由なき否定ほど、腹の立つものはない。 結婚前に勤めていた職場の上司は「なんか違うんだよね~」が口癖だった。 タバコ休憩が趣味の二回り以上年の離れた上司

【小説】月が綺麗な夜もある

ヤマザキくんとは同じ塾だった。 母親がママ友から「厳しいけど成績を上げてくれるイイ塾よ」と聞いてわたしを送り込んだ英語の個人塾だ。会話なんかまったくやらないで千本ノックみたいにひたすら英語の長文を読むだけだった。成績が上がったかどうかはわからない。 ヤマザキくんは小太りでそんなに背は高くなく、ちょっと目にはいじめられるタイプに見えた。が、そうではない。よくしゃべる子で勉強はできた。少人数のこじんまりした塾は成績のいい子ばかり集まっており、その中で彼は居眠りしていても一番難

『いろいろあった』

「昔いろいろあって」 「みんないろいろあるよ」 この言葉を聞くたびに思ってしまう。 玉石混交な人の経歴を"いろいろあった"で勝手に集約しないで欲しいと。 あるいは、そんな言葉でまとめられるような出来事しか経験してこなかったのかと。 今でも思い出すたびに苦しさのあまり身悶えして転げ回りたくなるような、"いろいろあった"なんて言葉ではとても表現できない、あの記憶。 少し昔の話をしよう。 ------ 北関東の農家に生まれた僕は、幼いころから身体が大変に弱かった。 ちょ

オンライン飲み会なんて、大嫌いだ

 「みんな元気なの? 陽子ちょっとなにそれ。水じゃないよね?えー!まじで水なの。 香織は?安定のビールね。 多田!ワイン!何それそんなイメージないんだけど。私はねノンアルビール。 いやあの…あのね…。この年になってアレなんだけど…妊娠…12月予定。来年…来年は会えるかねえ。生まれてたら、お盆の頃には8…9カ月? さすがに居酒屋には連れて行かないか。はは。 里中はー? 何飲んでるの。何も? あれ、何も飲んでないんだ。香織のビール、すっごい濃い色だね。なんのビール?」 変わらな

涙が止まらない

 ふっと涙があふれて、そうして止まらなくなり、いくら拭っても、のどは震えて。  それは、家にいるときもそうだったし、電車に揺られているときもそうだった。気づけば、青いハンカチが手放せなくなった。そのうち、ひとつでは足りなくなった。トイレやひと気のない場所へ、よく逃げ込んでいた。家だと、そで口やえりの色が、しょっちゅう。  数分で止まることもあれば、一時間、あるいは一晩中濡らしていることもあった。とろとろとにじむこともあれば、さらさらと伝っていくこともあった。  自分がな

塔の上で猫と暮らす [幻想小説/短編]

 彼女の朝は尖塔のてっぺんではじまる。  小窓から射し込む朝陽を受けて目を覚まし、重たい瞼を擦りながら起き上がると、足元で眠っていた小さな子猫がにゃあと鳴いた。夜行性の動物は今朝も二度寝をするようで、鳴き声をあげたきり動こうとしない。この気まぐれな生き物は、毎朝、朝餉の支度を終えた時間を見計らうようにしてすり寄ってくることを彼女は知っている。  彼女は子猫の柔らかな毛をそっと撫で、冷たい床に爪先を添わせる。粗末な寝台がひとつだけ置かれた質素な空間には、生活のための最低限度

死にたい、の最適解について

とあるウイルスのおかげでしばらく休校になっていて、学校に行かずに済んでいた。なのに、ゆるゆると学校が始まって、いつのまにか通常営業に戻っていた。典型的ないじめを受けている僕は、夏休みの終わりを目前にして、仕方なく、そして、必然的に「死」と向き合うことになった。 だからといって、首をつれそうなロープを用意する、とか、毒を入手するとかそんなことは当然できるはずもなくて、ネットで「楽な死に方」を探しながら、夜勤中の母の顔を頭に浮かべるだけだ。 ふと、なんとなく、おもむろに、広告

[短編小説]ドアノブ

 はじめは娘の仕業だと思った。ただ、娘は保育園へ行っていて、家にいるわけもない。だとしたらこの白いドア、どうしても開かないのはいったいどういうわけなのだろう。            *  用を足しおえたのは数分前だった。立ち上がって、パンツとズボンをずり上げ、かちゃかちゃとベルトをしめる。水洗のレバーを引くと、じゃぶり、と音がなって水が流れた。洗った手を白いタオルで拭いてから、ドアノブに手をかける。金属製の、レバー型のドアノブは灰色で、てかてかと光っている。そのドアノブを

三杯目のレモンサワーと逆転の神様に祈り

この世に神様がいるなら、土下座してもいい。 枕営業でも何でもするから、就職先を決めてほしい。 難なく駒を進めてきた人生のスゴロクで、「一回休み」を何回続けているのだろうか。 賽の目が5でも6でも、もう一歩のところでゴールでも、マスを戻り、戻り、また戻り。 結局、ふり出しに戻っているではないか。 気が付いたら大学4年生の夏。 周りの友達は既に内定というゴールに駒を進め、残り少ない大学生活を満喫している。 ひとり残された私はというと、エントリーシートから数えて37連敗。 暗黒

夜に埋める【掌編小説】

「元気ですか」 適当に打った一文は宛先不明で戻ってきたから、わたしは安心して、この宛てどころのないメールを書くことができます。 君のことをひさしぶりに思い出したのは、KさんがSNSで君の投稿をシェアしていたから。 「ミルク、愛してたよ。ありがとう。さようなら」 ドライな君には似合わない、甘く感傷的な言葉。 君が作業場で飼っていた白猫は、もうあの場所にいないのか。 猫の体からは陽だまりの匂いがすることを、わたしにはじめて教えてくれた可愛いこ。ベッドに寝転ぶ二人の間にあの

餃子 1

餃子 2 餃子 3  目が覚めた時、自分がどこにいるのか全く分からなかった。 「こちらですよ」  という女性の声がして、金属的な音がした。部屋のドアが開いて、看護師さんと共に入って来た男の人が誰なのかもさっぱりわからなかった。  その人は若いけれど自分より少し年上の、20代前半ぐらいだろうか、白いポロシャツに黒いズボン。真面目そうな印象だったが、表情には強い陰りが見えた。  誰だろう。  誰ですか、と聞こうか迷った時、向こうが先に口を開いた。 「父さん……」  父さん?