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おばあちゃんは認知症①「おばあちゃんが、私のことを忘れた日」

ゴールデンウィークに地元へ帰省して、
久しぶりにおばあちゃんに会いました。

おばあちゃんが私のことを忘れた日。
あのときの、ものすごくショックだけどなぜか冷静で、
少し腹立たしくて、とても寂しい。
ネガティブだけど、間違いなく私の大切な気持ち。
おばあちゃんに会うといつも思い出します。


「おばあちゃんが私のことを忘れた日」


人って、生きてると色んな顔がありますよね。

例えば私だと、
夫の妻であり、むすめの母であり。
当たり前だけど、
両親の娘であり、おばあちゃんの孫。

私は厳しい父の下で育ち(これもまたnoteに書きたい)、
無意識にその場その場の顔で1番求められているであろう役割は何か考えて動く癖があった。
(癖になっていたので、苦しいものでもなかった。そうして、相手が喜んでくれるのが嬉しかった。)


私のなかで、孫ってね、
ほんと手放しの愛情を受ける存在。受けてればいい存在。それが役割だと思ってた。

おばあちゃんはもう84歳。
認知症になって4年。

今まで孫としておばあちゃんの無償の愛をざぶざぶ受け止めていた私は、
認知症のおばあちゃんと未だに向き合えていない。
おばあちゃんの認知症を、まだ受け止めることができていない。


その1番の理由は、
おばあちゃんが、私のことがわからなくなったから。

子どもを産むまでは、緩やかに認知症はあったものの、
私のことは忘れていなかった。
名前も呼んでくれたし、私として接してくれた。可愛がってくれてた。

子どもを産んでから、
私のことを、姪の名前で呼ぶようになった。

おばあちゃんが、私のことを忘れた日。
私のことがわからなくなったことを、知った日。

それは、おばあちゃんに初めてひ孫を会わせた日。


私は、私をとっても可愛がってくれるおばあちゃんが大好き。
3歳のころ、
母が弟を妊娠中、切迫早産で入院していたので、産まれるまでずっとおばあちゃんちで暮らしてた。
だから今でも好きなのは、おばあちゃんが作る田舎料理の味。
大学で実家を出るまでも、学校から帰宅したあとはまずおばあちゃんちに行っておやつを食べることが習慣だった。
おばあちゃんはいつもにこにこ笑って私の話を聞いてくれた。

おばあちゃんが死ぬまでに見たいと言った花嫁姿も見せることができた。
結婚式ではおばあちゃんと手を繋いで中座した。

今度はひ孫に会わせることができる。
私の子どものことも、絶対喜んでくれる。

とっても楽しみにしていた私は、
別のかたちで衝撃を受けることとなった。

おばあちゃんは、私のことを自分の姪の愛称で呼んだ。

「えっちゃん、よう来たなぁ」

コロナ禍で、妊娠していたこともあり、離れて暮らすおばあちゃんとは数ヶ月会えていなかった。

「私えっちゃんじゃないよ、〇〇(本名)だよ」

「あぁそうか〜、
 もう誰が誰やらわかりょうらんのんよ」

「大丈夫よおばあちゃん、
 見て、ひ孫よ、産まれたんよ」

「うわぁ〜、可愛いなぁ、えらかったなぁ。
 でももうあんたも3人目じゃから慣れたもんじゃろう。
 男の子2人のあとに女の子ができて、上手に産んだなぁ」

「おばあちゃん、私初めての子どもよ、
 私、〇〇(本名)よ」

「ありゃ、そうじゃったかなぁ」

家族のなかで、私のことだけ分からなくなった。

高齢者のデイサービスで相談員をしていた経験もあったので、
認知症の症状は理解していた。
おばあちゃんにも、いつかこんな日が来るかもしれないと思ったことはあった。

認知症のある方は、本人が一番「忘れていく」ことをわかっていて、
その不安と隣り合わせのなか生活している。
言葉を否定することは、症状にもつながる。

仕事でやっていたことが、おばあちゃんには出来なかった。
事実をすぐに飲み込めなかった。

私はこの日から、おばあちゃんに会うのが怖くなった。
おばあちゃんが一番怖くて不安な気持ちかもしれないのに、
私は自分が忘れられた事実と向き合ってのが怖くて、逃げた。

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