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お耳に合いましたら テレビドラマ評

#お耳に合いましたら  全話視聴。

このドラマを観れてよかった。全身の五感を余すことなく使って表現しているから、視聴している側にも届く。Spotify/ラジオや会話や隣人の音楽。会社の商品である漬物と、お弁当やチェーン店の持ち帰りご飯/チェン飯。毎週儀礼のように定番化した、蓋を開けた時に嗅ぐ食欲をそそる匂い、…………。すべてを書いていたら、キリが無いほどだ。

11話で #いとうせいこう  さんが出演し、ラップバトルを開戦した時は嬉しかった。伊集院光さんが褒めていただけあって、役者や脚本家だけでなく作り手の各メディア業界やリスナー/ファンへの想いが伝わる。これまでの歴史/過去の遺産があるからこそ現在の世代が生活しそれぞれの文化的な楽しみを見出すことができる。そして、そのことへの、謝意。

批評に移る。物語のクライマックス/終結として、主人公の20代会社員が「自立」することで幕が降りる。その「自立」とは、仕事上の経済的/社会的な側面はもちろん、精神的/文化的にも自主ラジオを“ひとりで”続けることにより、「自立」する。ここに、私は21世紀の合法的な文化生活を過ごすための流儀を感じた。

作中ではマスクをしていないが、当然、世相のコロナ禍を主題に取り入れている。だから、チェン飯の中食とラジオを「私」は一人で食べ、聴いている。そこに他者が毎話加わり、「私」の日常がこれまでと変わっていくことを柔らかく肯定していく物語、だ。結果として主人公は関係性の中で、Spotifyという技術的な成果を得、友人が遠くに離れていても一人暮らしをしながら生きていく術を身につける。また、作中では、結婚や出産/子供というワードが若者からは発せられない。だから、彼女/彼らは会社/転勤先の鳥取での仕事/会社経営と共にラジオ/音楽/会社への恩返しという #政治と文学  #公と私 を彼らなりの生活で実践している。それを肯定し現在/毎日の食事を楽しむこと。それだけで、好いのだ。なぜなら、彼らはあくまで漬物、つまり副菜/裏方/受け手であり、その道を信じて生活している、から。

補論としては、これは何度でも強調して伝えたいこととして、〈総合性〉を挙げる。なぜ深夜のテレ東の1時間でもない30分弱の番組に、レジェンド声優の #花澤香菜 が煌/きらびやかなオープニングを唄い、#伊藤万理華 のコンテンポラリー・ダンスに揺られて #にしな が華麗にエンディングを飾るのか。そして、毎週ラジオ界の生ける伝説が登場するのか。メディアミックスとはよく言うが、字義の通り、ラジオもテレビも雑誌も元来は「なんでもありの玩具箱(おもちゃばこ)」。だから、ここ数十年の特にテレビを反映したような演出になった。つまり、芸人/タモリ・たけしもアイドルも声優も、すべてラジオが着火剤/ブーストになっている。映像/テレビの対としてラジオか出版が補完する形で位置してきたから、戦後芸能のルーツが音声/実況/ラジオにあるから、だから面白い。

昨今、ラジオやネット放送という私的な空間ですら倫理を強く求められる「空気」が一方にはある。ただ、だからこそ、「私」を守るためにこの雑多な自由度が、男も女も年齢も職業も関係なく「私」の身体に話しかけてくれる言葉をもっともっと聴いていたい。聴いていたいから、#お耳に における万人を受け容れるまさにチェーン店のような扉の軽さと味覚の重さを、チューニングさえすれば誰でもどこでも無料で聴けるこの広さと狭さを、私は何度でも肯定する。私の好きなラジオ/チェン飯だけは、聴き続ける/食べたいものを食べたいだけ、食べる。

「ごちそうさまでした。それでは、お耳に合いましたら。」

(この私なりの批評文は、宇野常寛さんのnote #大豆田とわ子 評と #中森明夫 さんに触発されて書いた部分が明らかにある。よって、ここにその旨を付記する。) 

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