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掌編小説

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掌編小説まとめ。たぶん1万字未満。
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掌編小説「よるべなき」

掌編小説「よるべなき」

 きみは立ち止まる。まだ〈Close〉のプレートがかかっている、木の扉の前で。目の前に聳えているのは、二階建ての、モカ色の煉瓦でできた建物。白くつるつるした横長の看板には、深緑色の筆記体で書かれている文字を読み取れなくて、きみはいまだに店名を知らない。右端についている海色のかもめのイラストが、この店を判別するための目印だった。

 真鍮のドアノブをひねり、重心をかかとに移すようにして手前に引いたけ

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掌編小説「世界が私に優しくない日」

掌編小説「世界が私に優しくない日」

 雨が降っているらしいことは、目を覚ました瞬間にわかった。後頭部の左奥のほうに、鈍い痛みの塊が疼いている。雨自体はきらいではないけれど、雨の日は体調を崩すからやっぱりきらい。体を形作る細胞ひとつひとつが湿気を含んで膨張し、あるべき位置からはみ出して、すべての部位がぼんやりと重たい。

 首を回して枕もとの目覚まし時計を見る。短針が2を少し過ぎたところだ。カーテンを閉ざした薄暗い自室の底で、午前なの

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掌編小説「夏の蝶」

掌編小説「夏の蝶」

 枯れ木色の蛹は、一本の白い糸を命綱に、コンクリートの壁にぶらさがっていた。強引に剥がしたシールのように端からねじれて丸まった、不格好な形。

 春の蝶が産んだ卵が、孵化して成長した蛹だろう。夏に羽化する蝶は、春に羽化するそれよりも羽がひとまわり大きいことを、未希は知っていた。理科の授業で習ったばかりだった。

 こんな萎びた蛹の内側に、本当に、真新しく美しい羽を畳んだ蝶が眠っているのか。未希は、

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掌編小説「拍手のひと」

掌編小説「拍手のひと」

 赤、緑、青、黄、紫。あちこちのスポットライトから放たれる原色の光線が、テントの中心へ伸びている。マイクを通した女声のナレーションがスピーカーから流れている。大きな音はかえってぼやけてしまって、ほとんどなにを言っているのかわからない。夏休みなのだろう、興奮をまとう子どもたちの声が、あらゆる周波数を混じらせながら円錐状のテントの頂上へと吸いこまれていく。

 サーカスを生で観るのは初めてだった。自由

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