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掌編小説「夏の蝶」

 枯れ木色の蛹は、一本の白い糸を命綱に、コンクリートの壁にぶらさがっていた。強引に剥がしたシールのように端からねじれて丸まった、不格好な形。

 春の蝶が産んだ卵が、孵化して成長した蛹だろう。夏に羽化する蝶は、春に羽化するそれよりも羽がひとまわり大きいことを、未希は知っていた。理科の授業で習ったばかりだった。

 こんな萎びた蛹の内側に、本当に、真新しく美しい羽を畳んだ蝶が眠っているのか。未希は、まるで信じることができなかった。

「未希」

 ざらついた低い声に呼ばれて、未希は一度まばたきをした。蛹に張りついていた視線を、むりやり引き剥がして、振り返る。薄い唇を真横に引き結んでいる兄は、人さし指と中指のほんの先で、空中のフックをひっかけるような仕草で、未希を呼びつけた。なにしてんの、と言いたげな冷たい視線を、光のない黒目の奥に読み取る。

 兄の着ている中学指定の体操服には、胸の位置に大きな名札が縫いつけられている。未希には、自分の苗字を主張しながら歩いているようにしか見えないのに、兄自身はまったく気にしていないようだった。

 兄は未希を顧みることなく、入り口へと足を進めていく。未希は兄を追いかけることなく、自分のペースで歩いていく。

 兄は、昔から小柄だった。そのせいかクラスメイトにからかわれることも多かった。目に涙を溜めて帰ってきたことも、一度や二度ではなかった。かつての兄の姿を、未希はいまでもはっきり覚えている。

 クラスの背の順で最後尾になったこともある未希とは、ずっと、身長はさほど変わらなかったはずだ。それがいまではなぜか、話しかけるたびに見上げなければならないほど、差が開いている。部活の練習で日焼けした肢体、鋭く立体的に研ぎ澄まされていく顔立ち。未希のお兄ちゃんって格好いいよね、と話していた友人の声が、蠅のように耳のまわりをうろついて鬱陶しい。仲のいい兄妹だと、ずっと言われてきた。たしかにそうだった。

 兄の背中がとっくに自動ドアの向こうに吸いこまれたころ、未希も館内に足を踏み入れた。ひどく冷房の効いた、人工的に統制された空間だった。膝丈の青いワンピースの下、剥き出しの脛のあたりから冷気が忍びこんできて、脚の筋肉がみるみる強張っていく。

 この図書館は、今年の春に建て直された。建物の老朽化が原因だった。

 天井近くの大きな窓を見上げれば、目を細めずにいられないほど眩しい。児童閲覧室の奥、畳が敷かれた小部屋にはちょうど日だまりができている。そこでは絵本の読み聞かせを行っているらしい。なめらかな声と、時折こどもの笑い声が届いてくる。読み聞かせているのはここの司書なのかあるいはそういうボランティアなのか。

 背中側からぬるい風が入りこんできて、ゆるりと振り返る。ひらいた自動ドアから、赤ん坊を抱いた女性が入ってきた。児童室のほうへゆったりと向かっていく。幸せに満ちた母親のえくぼ。赤ん坊の背中に添えられたしなやかな指先。母親の肩から顔をのぞかせた赤ん坊、白く柔らかな肌、その顔の真ん中にふたつ並んでまたたく、世界を疑ったことのない瞳。二階にあるらしい自習室から女子中学生が降りてくる。両腕で抱きかかえた参考書、しなやかに伸びた背筋、二つにまとめられた髪、セーラー服の襟をまっすぐに横切る三本の白い線。

 ここは。この空間のなかにあるものは、すべてが。

 あかるい。

  まぶしい。

   おおきい。

    ひろい。

     やわらかい。

      ただしい。

       正しい。

        かえりたい。かえりたい、帰りたい、帰りたい帰りたい。

 はやく、やるべきことを済ませて家へ帰らなければ。

 未希は建て直される以前の、古くて暗くて小さかったころの図書館が好きだった。何度も母に連れてこられた。絵本や児童書はどれも端が折れていて、湿気と時間をたっぷり吸った紙は黄色く膨張していた。未希はいつも、目についた本を適当に抜き出してページをめくった。物語を読みたいわけではなく、ただ紙をめくりたいだけだった。途中から途中までしか読まないからなんの話だったかわからなかった。それでよかった。未希には物語など要らなかった。明るく眩しく美しく幕を下ろす物語など、あえて読みたくはなかった。

 薄暗くて冷たくて寂しくて大好きだった。あのほのやかな時間。ほの暗く静かで、死んだように穏やかなあの時間。手触り。におい。あの図書館は、一昨年の夏休みの終わりに取り壊された。あっという間に工事は進んだ。春。今年の春。広く大きくなった図書館の入り口に立ち止まり、すでにあのすべてが遠ざかってしまったことを悟った。

 実際に新しい館内に足を踏み入れたのは、今日が初めてだった。

 母に言いつけられて未希を連れてきた兄が、カウンターの内側に座っている司書に声をかけてくれるものだと思っていた。兄はすでに漫画のコーナーで、右足に重心をかけた姿勢で立ち読みをしていた。

 呼びにいくのは癪だった。未希は初めて、ひとりでカウンターに近づくことにした。真新しいカウンターの表面に、天井のオレンジの照明が反射して照らめいている。

「あの、」

 未希が細い声で呼びかけると、司書の女性はすっと立ち上がった。司書の瞳を追うようにして、未希は首を上へ向ける。頚椎が折れ曲がる感覚。首の肉が折れ重なって、滲んだ汗が、皮膚と皮膚のあいだに溜まる。

「はい、こんにちは」

「こんにちは、あの、カードの、えっと、カードを、あたらしくしてください」

 昨日の風呂上がりに爪を切ったばかりで、カードケースに入れた図書館の利用カードを指先で抜き出すのに手間取った。建て直す以前の図書館で使っていたカードだ。建て直しとともに、利用カードも新しいものへ更新しなければならないことになっていた。

「はい、利用カードの切り替えですね」

「あ、そうです」

「では、身分証明書などはお持ちですか」

「みぶんしょうめいしょ……」

 司書の言葉を空虚に繰り返してしまうと、司書はひとつ小さく息を吐いてから、ゆったりとした口調で言い直した。

「えっと、あなたの身分を、証明できるもの、保険証とか。持ってますか?」

 ほけんしょう、という言葉で、ようやく思い当たる。今朝、古い利用カードと一緒に、母に持たされたのだった。同じケースに入れていた水色のカードを取りだし、利用カードの隣に置いた。未希の名前や生年月日が記載されている水色のカード。波のように揺らめく模様がうっすらとうかがえる。光の加減で、表面のホログラムがひらめいた。なにかアルファベットが並んでいるようだが、うまく読み取れない。

「これで、あってますか?」

「うん、合ってます。じゃあ手続きをするので、ちょっと待っていてくださいね」

「あ、はい」

 司書は、未希の利用カードのバーコードをリーダーで読みとってから、保険証に記載された文字に目を落とした。未希の名前と、生年月日。本当にたったそれだけで、写真もないこの小さなカード一枚だけで、自分の身分は証明できるのだろうか。司書の右手は、滑らかな動きでパソコンのキーボードをたたいていく。未希を未希たらしめている要素が、キーボードの一粒一粒に砕かれて、パソコンのなかに取りこまれていく。

「電話番号とか住所は、変わってないですか?」

 手の動きを止めないまま、司書が問う。彼女の視線は、保険証とキーボードに落とされたままだ。未希は自分の視線の置き所を定められずにさまよわせながら、えっと、はい、とうなずく。

 司書の小指がエンターを押す、いちだんと硬くはっきりとした音が、未希の耳に届いた。

「はい。では確認できましたので、保険証を先にお返ししますね」

 保険証を受け取った指先から、腕を伝って、ちりちりとした感覚が心臓にまで到達する。左胸のあたりがひやりと締めつけられる。お腹の底で内臓が、おぼつかなく浮き上がる。

 本当にこのカード一枚で、こんなわずかな文字列だけで、身分を、証明? できたのか? ほんとうに?

 きっと、なにか、もっと、ほかに手がかりがあるはずだ。縋るようにひっくり返した保険証の裏側は、表面と異なり、そっけない白だった。手触りもちがう。さらに頼りない、するするした感触。

 住所を記した欄の下に並んでいた細かい文字から、未希は目を離せなくなった。剥がせない。視線がずるりと滑って、ひとつ残らず拾い上げてしまう。

※ 以下の欄に記入することにより、臓器提供に関する意思を表示することができます。記入する場合は、1から3までのいずれかの番号を〇で囲んでください。

1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。

2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。

3.私は、臓器を提供しません。

《1又は2を選んだ方で、提供したくない臓器があれば、×をつけてください。》

【心臓・肺・肝臓・腎(じん)臓・膵(すい)臓・小腸・眼球】


「お待たせしました」

 保険証に落としていた視線を、司書の顔へと上げる。司書の目は鋭く黒いアイラインに縁どられていて、その奥で本当にはなにを思っているのか、よくわからない。

「こちらが新しいカードになります。前のカードは、こちらで処分しても大丈夫ですか?」

「はい」

 新しいカードを受け取る。交換に、古い利用カードが回収される。カードケースに、新しい利用カードと、保険証を仕舞う。

 図書館の利用について簡単な説明を受けてから、館内に向き直り、兄の姿を探す。こんにちは。こちらの本はご返却でよろしいですか、という司書の声が、背中に聞こえた。

 兄は漫画の棚の前に、まだいる。さっきと同じ、右足に重心をかけた斜めの姿勢で、左足の膝を軽く曲げ、やや外側にひらいた格好で、人さし指でページをめくりながら、読みふけっている。文字や絵を追う視線はつねに上下にぶれる。兄のまわりの空間だけ、さっきとなにも変わっていない。時間が止まっているかのようだった。さっきより進んだページ数だけが、そうではないことを証明していた。

 証明。

 いま声をかければ、機嫌を損ねられるかもしれない。未希は兄に背を向ける形で、ひとりで児童書のコーナーへ入っていく。読書感想文の題材に使える本を、さっさと探しださなければならなかった。

 背の低い本棚に並ぶ背表紙から、タイトルの文字を拾っていく。文字の洪水。文字。文字。文字。脳の容量から溢れそうだった。文字だということはわかるのになんと書いてあるのか理解できない。文字。文字、文字。文字文字文字。

 保険証の裏に並んでいた文字列が、未希の脳の内側にしぶとくこびりついて、まだ離れていない。そのどろりとした感触から、いまだに逃れられていない。

 文字はそれぞれ分かちがたく手を結び、ひとつの像を作っていく。未希の脳内に、映像が紡がれていく。

 臓器、提供、意思、表示、私、脳死、心臓、停止、死後、移植、臓器、提供、私、心臓、停止、死後、移植、臓器、提供、私、臓器、提供、提供、臓器、×、提供、臓器、×、心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸、眼球。眼球。眼球。

 手術台に横たわる自分の亡骸。身体にかけられたこおり色のシート。腹の位置には四角く穴が開いていて、白く乾いた肌が剥き出しになっている。手術台の傍らに立つ医者。緑と青のあいだの色の手術着、同じ色の平たい手術帽、両手に張りつく白いゴム手袋、銀色に鋭く光るメス。

 メスが近づく。四角く剝きだされた腹部の肌の、表面に触れる。銀。光。医者が指先に力を入れるまでもなく、触れた一点から細胞が切り裂かれる。赤黒い液体が、小指の爪の先よりも小さく膨らみ、一拍遅れて表面張力が壊れ、流れ出す。メスはまっすぐ腹部をなぞる。皮膚の内側、熟した赤がめくれていく。大きく切りひらかれた薄い皮膚の奥には、それぞれの内臓がパズルのように詰まっている。脈拍を止めた柔らかな心臓、左右対称に並んだ、横隔膜に癒着した肺、血液の塊そのものみたいな不等辺三角形の肝臓、背を丸めて向き合う双子の胎児のような腎臓、胃の奥で小さく縮れた膵臓。ひとつひとつ、血液を滴らせながら、医者のゴム手袋によって引きずりだされていく。銀色のトレイに乗せられていく。最後に、口から裏返った蛇のごとくどろりとうねった小腸が、下腹部からずるずると引き出される。

 中身がほとんど空になった身体のことを、未希はまだ、まだ、自分の身体だと思う。内臓の有無では、未希は未希であるという事実は揺らがない。むしろ、中身がなくなったぶん、身軽だろう。どんなに緊張の満ちる場に放り出されても、高まる脈拍のせいで声が震えることはないし、もうトイレにだって行かなくていい。いくら全力で走っても、息が上がったりしないだろう。身軽な身体を携えて、どこまでも軽やかに走っていくことができるだろう。目を覚ますことさえ、できれば。

 腹部を開け広げたまま、医者は未希の頭部に立つ。青白い未希の顔。薄い唇を引き結び、ぴたりと瞼を閉じている。

 ゴム手袋に包まれた人さし指が、未希の閉じられた瞼に伸びる。上瞼と下瞼を、接着剤のように結びつける睫毛、その隙間を縫った指は瞼の境目に辿りつき、上瞼を押し上げる。ぎろりと、円い黒目が覗く。その黒目は、医者の白い指だけを映す。瞼は黒目の上端まで押し上げられ、完全な白目が始まる。眼球はまだ、その奥まで続いている。指が眼窩の奥へと力をこめる。眼球を繋ぎとめる筋肉をたどって、摩擦も生じないままに指は、奥へと滑り入っていく。眼球の裏側、血管の密集している位置に指先が届く。第一関節をゆるく曲げる。眼球をつなぎとめていた細い血管が、一本、一本、ちぎれる。目尻から赤い涙が溢れる、耳へと、硬い肌を滑っていく。その耳は眼球の奥で血管がちぎれていく音を捉えている。医者が、指に、最後の力を込める。眼球の中心を支えていた、大きな筋が、ちぎれ、眼球は、完全に、眼窩から、引きはがされる。瞼をくぐり、全面が冷たい外気に晒される。医者の白い指につままれた眼球は、瞼の奥に収納されているときには想像もつかなかったほどの、完璧な球体である。

 取り外された眼球の、角膜、虹彩、水晶体、いくつもの壁をすり抜けて網膜に映るのは、片目を失って、赤い涙を流し続ける未希の身体だ。それからすぐに眼球は、ほかの内臓と同様に、銀色のトレイに転がされる。トレイに反射する天井の青白いライト。やがて右目の隣に、もうひとつの眼球が転がされる。完璧に白い球体の中心に、墨が滲んで広がったような黒目。ずっと隣り合っていながら、未希の右目はうまれて初めて、未希の左目と相対した。未希の左目の中心には、未希の右目の姿が映っていた。未希の右目の中心には、未希の左目の姿が映っていた。未希の左目の中心に映る未希の右目の中心には未希の左目が映っていた。未希の右目の中心に映る未希の左目の中心には未希の右目が映っていた。未希の、

 銀色のトレイに転がされた両目。は、隣の部屋に横たわっている、空っぽの眼窩で待ち受けている、べつな身体のもとへと移動させられる。医者のゴム手袋が、片方の眼球を掴む。もはやその目玉は、かつて未希の右目だったのか、左目だったのか。未希の身体に収まっていたときの景色を、網膜に淡く保持したまま、新たな眼窩のなかに収められる。新たな血管と新たな筋を頼りに、新たな脳と接続する。その瞬間、未希の眼窩から見ていた景色の記憶に、新たな身体から見える景色が上書きされていく。手術室の天井。青白い照明。無感情に患者を見下ろす、医者の目。

 それはその目はその視覚はその記憶は未希のものだ。未希のものだった。未希が見たもの、だった。未希の記憶。だった。

 なにが。どれが。どこが。だれが。

 隣の部屋では、両眼を失い、視覚を失った女の子供の亡骸が、冷たく横たわったままでいる。

 ああ。

 ×をつけなければ。

「未希」

 ざらついた低い声に呼ばれて、未希は一度まばたきをした。本棚に並ぶ背表紙の文字を、視線でなぞっていた瞳の動きを止め、声がした方角へ、首を、ねじる。自分の身体はなぜか、自分が思った通りの向きへ、思った通りの速さで、動かすことができるのだった。

 兄がそこにいる。兄の身体がそこにある。ふくらはぎの、不格好に発達した筋肉。半袖の白からひょろりと伸びる焦げた腕。茶色い肌に紛れて目立たない、光に当たると金色に見える、うっすら生えた体毛。腕の細さと裏腹に、手の甲は、皮膚の下にある骨と筋が目でなぞれるほどにくっきりと浮き出ている。体操服の腹部に縫い付けられた苗字。喉の出っ張りは尖った石が埋まっているかのよう。ついこのあいだまで、こんな異物は彼の喉には埋まっていなかった。

 目。兄の目。瞳。ぎろりと鋭い光が、黒目の中心に射しこんでいる。兄は、兄の目は、兄の目を直視したことはないのだ。

「終わったならはやく呼べよ」

 兄の声変わりが始まったのはほんの数ヵ月前のことだった。以前の、軽やかに高い声の名残は、どこにも残っていなかった。

「なんか、漫画読んでたから」

 兄は、ため息を吐き出すのと同じ重たげな空虚さで、言葉を吐き捨てる。

「暇つぶしで読んでただけだよ、本選んだなら帰るぞ」

 変化した身体の形、低くなった声、乱雑になった性格。

「ごめん、まだ」

 未希の声の端は、ほのかに震えていた。母が、小五の未希がひとりで図書館まで行くのは危ないからと、部活から帰ってソファで寝ていた兄を、なかばむりやりついていかせたのだった。

「いつまで悩んでんだよ」

 兄。未希の兄。未希が産まれた瞬間から未希の兄だった兄。未希よりも先に母の子どもだった兄。兄が産まれた瞬間、そのとき兄はまだ未希の兄ではなかった。

 新しくなった図書館、どこまでも遠く並ぶ本棚、大量に詰められた本、蔵書がこんなに多ければ、自分が読むべき本などとうてい見つけられない。視界には大量の文字が送り込まれてくる。視界。視覚。目。大量の視覚情報を記憶している未希の眼球。未希の見た景色は、すべてこの眼球によって映された景色だ。この眼球を失えば未希は、未希の身体は未希の記憶は、だれのものだろうか。

 目の前に広がるすべての景色を閉ざすために瞼を、おろす。人さし指を、閉じた瞼に伸ばす。瞼の上から眼球に触れる。粘度の高い透明な液体が、瞼と眼球の隙間を満たしているのを感じる。熟れすぎたトマトのような柔らかさと、ウズラの卵のような弾力。

 これ以上指先に力をこめたら、潰れるだろうか。潰れた眼球からはなにが溢れだすだろうか。血液、濃密な赤黒い液体。あるいは。子持ちシシャモの卵のような薄黄色い粒が零れだす様が浮かんだ。目の卵。無数の目。あわてて指を離し、その指を、目の前にあった本の背表紙へと伸ばした。ハードカバーの角が折れていて、厚紙の内臓、灰色の薄い紙が折り重なった部分が剥き出している。

「これでいい」

「ん」

 貸出手続きをしてから、兄のあとについて自動ドアを抜けた。すっかり冷房に慣れていた肌に、夏の、夕方の、黄色の、まっすぐの、まぶしい光が射してくる。肌は焼ける。焼けた肌の表面から、やがて皮がめくれ落ちる。さっきまで自分の身体の表面を覆っていた皮は、剥がれ落ちた瞬間に汚いゴミとなる。

 コンクリートの壁に張りついていた蛹のとなりに、羽化した蝶が止まっていた。大きく広げる黒い、二枚の羽。羽の表面にぽとりと落とされた白いインクのような、いびつな円形の模様。

 繊細なアンテナのように細く伸びる触角。黒く丸い瞳は剥き出しで、蝶には眼窩がないのだと気づく。生まれたての蝶からは、かつて芋虫だったときの、おぞましいほどのふてぶてしさはどこにも見当たらなかった。優雅で優美なその羽を、広げる。呼吸するようなリズムで、また羽をすぼめる。まだ飛び立たない。羽化したばかりで、飛び立てるほどの力をまだ身に着けていないのかもしれない。

「未希」

 傾きだした太陽を背に、兄が立っている。未希が見上げた兄の顔の凹凸は、そのすべて、光の裏側に吞み込まれてよく見えない。

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