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掌編小説「拍手のひと」

 赤、緑、青、黄、紫。あちこちのスポットライトから放たれる原色の光線が、テントの中心へ伸びている。マイクを通した女声のナレーションがスピーカーから流れている。大きな音はかえってぼやけてしまって、ほとんどなにを言っているのかわからない。夏休みなのだろう、興奮をまとう子どもたちの声が、あらゆる周波数を混じらせながら円錐状のテントの頂上へと吸いこまれていく。

 サーカスを生で観るのは初めてだった。自由席のうち、比較的空いていた右側後方のベンチを選んだが、開演するころには前も後ろも真隣も、すべての席が隙間なく埋まった。

 急用ができて行けなくなったという友人からチケットを譲られたのはいいものの、開演直後にしてすでに、テント内にこもる熱気と人の多さに圧倒されていた。テントの中心に広がる円形のステージで、黄色と赤のストライプの衣装に身を包んだピエロが、両手足をくねらせる奇妙なダンスをしている。椀型の客席の底にステージがあるため、観客の視線はすべて、ピエロを見下ろす形になった。

 ゆるい両袖口から一本ずつバトンを取りだしたピエロは、そのバトンを客席に見せびらかすように振ってから、ジャグリングをはじめた。観客の視線は、やけに高く放り投げられたバトンを追って上がり、落下のスピードに合わせてピエロの手元へと降りていく。回転しながらキャッチしたり、背中でキャッチしたり、あらゆるパターンのキャッチを網羅し終えた後、ピエロは正面の客席に向かって一礼をした。同時に、私の左斜め後ろあたりから、拍手の一音目が鳴った。その音がきっかけとなって、テントの全体に拍手と歓声が広がった。

 派手な衣装を身にまとったパフォーマーが次々に登場し、パフォーマンスが展開されていく。紫色のマント男は、連れ立って登場した女性を長方形の箱に閉じ込め、南京錠をかけた。檻から放たれたシマウマの片耳には、人間へのプレゼントのごとく赤いリボンが巻かれていた。
 頑丈に鍵をかけたはずの箱からは女性が脱出し、シマウマは炎の輪をくぐり抜ける。観客の意識は、ステージ上で起こるパフォーマンスや鳴り響く音楽のひとつひとつに洗脳され、誘導された。観客はまるで、観客、というひとつの大きな生命体であるかのように、全員の目で同じものを見、全員の耳で同じ音を聞き、全員の口で同じ声をあげた。

 観客が一斉に拍手を起こすとき、その一音目はかならず、私の左斜め後ろから鳴った。この大きな生命体のなかにあって、その音には明確な意志があった。この拍手の一音目にだけ、個人の意志が宿っている。あるいは、この拍手の一音目が、この生命体全体の意志を司っている。

 目ではステージ上のパフォーマンスを追いながら、耳はいつも、スピーカーから流れるナレーションではなく、私の左斜め後ろから鳴りだす拍手のためにそばだてていた。

 トリを飾るのは空中ブランコだった。最初にジャグリングを披露したあのピエロが再び登場し、鉄の梯子をのぼっていく。観客の視線は、糸で繋がれているかのようにピエロの上昇に連動し、吊り上がっていく。

 ピエロが梯子をのぼりきると、無人のブランコが向こう岸の黒子から放たれた。振り子の要領で弧を描きながら、ピエロのもとへ向かっていく。ピエロはだぶだぶの両腕を前に伸ばす、迫りくるブランコに、タイミングを合わせ、膝を軽く曲げてから伸ばし、両手をひらいて横棒をつか、む。

 瞬間、私の左斜め後ろを始まりとして、拍手がはじけ、歓声があふれた。ピエロの身体をぶら下げたブランコは、なお正しいリズムを保って振れつづけている。ピエロは膝から下を曲げたり伸ばしたりしながら、向こう岸に飛びこめるだけの勢いをつけていく。

 観客は一斉に息を詰めた。私たちは、ひとつの肺でひとつの呼吸をしているかのようだった。

 ピエロはその足を、その足こそがブランコであるかのように大きく大きく振り上げた。ピエロの体は、重力から解放されたようにテントの頂上めがけて浮き上がった。ピエロは、最高潮にのぼりきった位置でパッと両手を離した。

 観客は、全員の感情がひとつの心に管理されているかのように、ひとつの悲鳴を上げた。

 ピエロの体は、一瞬宙に静止した直後、地面に吸いこまれるようにまっすぐに落ちていく。落ちていく。両腕をぐるぐると回しながら、黄色と赤のストライプが落ちていく、落ちていく、落ちて、

 張られていたネットがピエロの背中をやわらかく受け止め、地面すれすれまでたわんだ反動で跳ねたピエロは、その勢いのままネットの上に立ち、ぴたりと着地した。

 ピエロがあげた両手をスイッチとして、一拍遅れて拍手が沸き起こった。やや拍子抜けしつつ、私も両手を打ちつけた。打ちつけながら、私は私の左斜め後ろに耳を傾けていた。

 拍手が、聞こえない。あの迷いなく皮膚をぶつけあう激しい破裂音が、いつまでも聞こえてこない。

「いまのは、失敗じゃないかっ」

 客席に沸いていた拍手がすっと落ち着き静まって、昂った声の波紋だけがテントの隅々にまで広がっていった。ステージ上のピエロに迷いなく注がれていたはずの観客の視線は、その声が響き終わるまでの一瞬のうちに、私の左斜め後ろへと集結した。

 原色の光線が宙を飛び交う暗がりで、こちらを振り向き見つめる、目、目、目、口、目、口、口、目、口、目、目、目のなかに映る光、薄く開いた口、漏れる失笑、ため息。

 両手を天に掲げたままのピエロの、白塗りの肌のうえに青く縁取られたその両目も、同じ角度でこちらを見上げていた。笑顔の形に赤く塗られている口元が、本当にはどんな形をしているのか、ここからは見えない。

 私は、私も、私の左斜め後ろを振り向いた。

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