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共鳴の時間

先日、りぷりんと・ネットワークの「絵本の読み聞かせ」を初めて観に行った。
高齢者が読み聞かせを行うことで脳の海馬の縮小が抑えられ、認知症の予防になる。アメリカから医師がエビデンスと共に輸入したものであった。

わたしは今年で34歳になる。社会的に大人のポジションを生きている。いつまでも子どもでいる事が天才、なんて謳歌しながら毎日きっちり同じ時間の電車で職場に向かう。
電車内でキレる大人、聞かないフリのイヤホン、わたしは人の流れに乗ってエスカレーターに乗り、改札にSuicaをかざす。
地球儀を一周回したらまた日本が見えてくるように、毎日起こることは流れに乗せるだけであり特別なことではなかった。例え特別が起こったとしても流れに乗せていくのが毎日だった。
「絵本の読み聞かせ」もそんな感じで受け身があって流れていくに違いないから、読み終わったら絵本の内容について考えたり、哲学対話する方がずっと役に立つんじゃないか。と、思ってたのが本音で、今となればその記憶を引き出しの奥に仕舞いたい。

わたしが観に行った読み聞かせの現場は高齢者といっても親戚の叔母と変わらないぐらいの年代で、さすがにおばあちゃんとまでは言えない女性がいた。
やや場が張っており、大人ばかりの現場に「どうしよう」の声が空耳してる気がした。
子どもが来た瞬間。ここで言う「高齢者」の顔がほころび彩度が上がった。それまでの張り詰めた段取りを溶かした音が「はじめるよ」と言った。
2歳ぐらいの子が絵本を見ている。初めは他の絵本を読みたいと母親にねだってた子も高齢者が読む絵本の方へ吸い込まれていく。
わたしは自分の隣に座った男の子への眼差しに、自分が大人なのを悟らされる。
わたしは本物の子ども、つまり天才には叶わなかった。隣の君にとって全部が流れではなく今ここに在るのだ。
高齢者もまた子どものひとつ一つの特別に反応する。反応の共鳴にわたしも必死に付いて行こうとするが当事者には成れなかった。

見えない絆というのは存在するようで、帰っていく子どもと読み聞かせた高齢者はハイタッチし、わたしも手を伸ばしてみたが見事、仲に入れなかった。
わたしは身体中の血が流れているのを感じながら、いつかその絆の一部になることを心に轟かせた。

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