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私の人生。子どもたちに伝えたいこと。





君は今、辛いですか?苦しいですか?
居場所がなくて、辛い思いをしているかな?
親にわかってもらえず、寂しい思いをしているかな。
1人で、誰にもバレないように泣いていないかな。
親を喜ばせようと頑張っているけど、それでも傷ついていないかな・・・大丈夫かな。
家でも、学校でも居場所がないと感じていたら、辛くない時、少し元気がある時でいいから、これを読んで欲しい。

私は、君と似た経験をして生き延びてきた、31歳の「朋世(ともよ)」といいます。
君の味方です。まず最初に言いたいのは、君は充分頑張っている。だめな人間なんかじゃないよ。大丈夫。

これから、少し私の話をするね。辛くなったら、無理して読まなくていいからね。
じゃあ、始めるね。


私は子供の頃からとても真面目で、小さい頃からよくしっかりしていると言われていた、3人兄弟の長女でした。お父さんとお母さんもいて、お父さんは自衛官。そして家では亭主関白で、家事は全然やらなくて、お母さんとよくお金のことで怒鳴り合いの喧嘩をしていました。
小学校の時、お父さんがお母さんを泣かせて叩いて、お母さんが出て行ったこともあって、長女の私は弟と妹を守らなきゃ。と思っていた。
お父さんは、仕事のストレスを全部家で吐き出して、毎日キレて毎日舌打ちしていてすごく嫌でした。お母さんは家族のためにがんばる人だったんだけど、ちょっと不器用で子供を褒められない人だった。私はどれだけテスト頑張っても、どれだけ気をつかっても、長女として良い子にならなきゃってめちゃめちゃ頑張っていたけど、なかなか褒めてもらえなかった。

お父さんの仕事の関係で転校しました。小学校6年生になる時でした。埼玉県から長野県へ6年ぶりに長野へ戻ってきたっていう感じだったんだけど、転校生として都会から田舎の学校へ来たら、すごく大変な思いをして、元気な自分から引きこもりへと変わっちゃったんだ。
原因は中学1年生の時の「いじめ」と「家庭環境」でした。
中学1年生の頃ある女友達ともめてしまい、そこからテニス部の子たちとバレー部の子たちからひどくいじめられるようになった。廊下ですれ違う時、私が他のことを話をしていてちょこっと笑ったら、テニス部でも学年でも目立っていた女の子が私を見て、周りの子たちに「うわ!見て!顔汚い!笑」って大声で言って笑い始めて、私はそのときすごく胸が苦しくて、その頃から笑えなくなった。
自分って、顔汚いんだ・・・って本気で思うようになっちゃってね。

同じ教室にいても、教室の角でテニスとバレー部の子たちがかたまってて、私の悪口を言って笑っていて、チラッとそっちを見ると「死ね!!」って大きな声で言われて、1人で自分の席にいても涙が出てきちゃうから、みんなが使わないトイレまで行ってばれないように声をこらえて泣いていました。でも授業が次あるし、目が赤いとまた笑われるから、早めに泣き止まなくちゃって必死だった。

先輩がたくさんいる昇降口でも、みんながいる中で「きもい!死ねよ。」って大声で言われて、すごく恥ずかしくて、下校途中も泣くのを必死に我慢して友達と帰っていました。
上履きの中に木の枝が入っていたり、体育の授業でバスケットボールをぶつけられたり、一年生の時はすごく辛かったです。

その当時の私の口癖は「ごめんね」でした。

2年生はクラス替えがあって、何とか普通にやれたんだけど、3年生になってから今度は卓球部の男子にいじめられるようになってね。嘘の噂で「あいつ、膝から煙があ〜!って頭いかれたらしいぜ。」って流されていたりとか(他の男子が教えてくれたんだけどね)、修学旅行の写真に私が変に映る写真があって、そこにみんなでたかって指差して笑ってみていたりして、それも心が苦しかったです。

1年生の時よりは我慢できたんだけど、この時、実は家での方が辛くて・・・。
お父さんとお母さんの喧嘩が絶えなくて、毎日、学校で辛いことがあっても、家に帰ればまた辛くて・・・そんな日々が夏まで続いて、ある日、お父さんが弟とテレビの取り合いで、弟に酷いことをして、弟がそれで泣きながら家を飛び出したの。

私は、それを見て一瞬で携帯を持って弟を追いかけて、自転車で飛び出したの。弟は、家からずっと自転車で走り続けて、どこまでも行っちゃって、やっと田んぼ道で止まって自転車を放り投げて泣きながら座り込んだから、私も隣に座って背中をさすりながら2人でいたら、そのうち夜になっちゃって、お母さんに連絡をして迎えにきてもらってその日は終わったの。

だけど、その頃からかな・・・、私の今まで張り詰めていた糸が、その一件でプツ。って切れちゃって、家に帰りたくなくなって、下校時間になったらまた皆んなが使わないトイレで隠れて、「もう帰りたくない。どうにでもなれ。」って思って泣いていたら、見回りにきた先生に見つかって、そのあとすぐ、相談室の先生が駆けつけてくれて、泣いて話したんだ。

そして、私は不登校になり、家(部屋)から出られなくなって、カーテンを一日中閉め切って私服のまま布団から一歩も出ずに過ごしていた。涙はいくらでも出てきて、あの頃、一生分の涙を流したと思ってる。
3年生の総合テストは一度も受けなかったんだ。そのまま、高校受験に入ったの。

もう私は、1日学校に行く体力と気力は残ってなかったから、定時制の高校を考えて前期入試(面接と作文)で受けることにしたの。でも、実は12月〜3月まで、精神科の病院に入院することになっちゃって・・・
3ヶ月入院しながら、高校を受験して何とか受かって無事決まったんだ。
今思えば、あの状況で、私を合格にしてくれた定時制高校には心から感謝しています。

入院生活も辛かったけど、家にいるよりは休めていたから、当時は入院して良かったと思う。
それから、お薬も飲みながらだけど、無事に高校生活が始まって、彼氏もできて、友達とは高校でもいろいろあったけど「人生やり直したい!高校に行きたい!」って思って頑張って本当に良かったと思います。

4年制だったから、自分の病気とも闘いながら4年間頑張って学校に行って、卒業して、専門学校に入学しました。だけど、なんと3ヶ月くらいで中退しました。笑
私は、我慢強くなくて、ストレスにも弱いし、中々厳しくてそのあとはずっとバイトをしました。20代になるまでずっと。

私は、「ちゃんとした社会人」にはなれなかった。周りの皆んなみたいに普通の道は歩めなかった。

だけどね、今私は31歳で、長野県を離れて秋田県にいます。結婚して、家も買って、マイホームで夫と愛犬・ペットと一緒に生活しながら、仕事も見つけて働きながら、人にも本当に本当に恵まれました。
今、私の周りには優しくていい人たちばかりで、毎日が幸せで溢れています。
世界一幸せ!って思うくらい!「ちゃんとした社会人」になれなくても、人って幸せになれるんです。

人は、人の数だけ道があります。人生は、親が決めるのではなく、自分が決めていいんです。
たくさん遠回りした分だけ、見える景色があります。人の痛みもわかるようになって、人一倍優しくなれます。君の今の経験は、無駄ではないよ。泣いた分だけ幸せになれます。

でも、頑張りすぎるのは自分の体と心に良くないこと。だから、辛い時、辛い場所からはどんどん逃げてください。逃げても大丈夫だから。私もたくさん逃げてきました。

あと、誰かに迷惑をかけるのが嫌だ。ってきっと思うよね。私もそうでした。
だけどね、人って迷惑をかけてもいいんんだよ!もし気になるなら、そのあと恩返しすれば大丈夫!
人って助け合い、支えあいで生きてて、1人で生きていける人は世界のどこにもいないから。

泣きたい時は、泣ききるつもりで全部泣いていいよ!
私は不登校の時、音楽を聞きながら泣いていました。おすすめの曲、1曲教えるね!
SEAMOの「Cry Baby」って曲。ぜひ聞いてみてね!


長い文を読んでくれて、ありがとう!
最後に、ちなみに私は今両親とも超仲良くやれていて、前は両親を恨んでいたけど、今は大好きになったよ!

君の人生は、君のもの。
自分のペースでいいから、少しずつ進んでいけば、必ず道は開けるよ!
あと、自分のことを自分で一番の味方になってあげて、大好きになってほしい。
君のこと、わかってくれる人って、まだ出会っていないだけで、実は世界のどこかには必ずいるんだ。まずここに1人。私ね!!

今、目の前にある居場所だけが、君の人生じゃないからね。
君の人生は、これから君次第でどんどん広がり、素敵な人と出会い、明るい未来が待っている。

君は、よく頑張ってる。十分頑張ってる。君は超えらいよ!!
君は生きているだけで価値がある!

自分らしく生きて、自分らしく笑ってね!!

読んでくれて、ありがとうございました!
君といつか会えるといいなぁ〜!!
それでは、またね!



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