"ママが刺される夢"をみた、5才息子の深層心理。
「母ちゃ〜ん!母ちゃ〜ん!」
そんな声と共に、廊下をペタペタと歩く音が近づいてくる。
息子のお弁当をつくっている途中だったので、キッチンで作業しながら息子の方に顔を向けた。
その瞬間、ギョッとした。
息子の両目から、涙がボロボロとこぼれ落ちていたのだ。
最近めっきり泣かなくなった5歳の息子。こんなに涙をボロボロ流して泣く姿をみるのは、なんだかすごく久しぶりに思えた。
「母ちゃんがさ、死んじゃう夢みた。」
ヒックヒックと喉を鳴らしながら、私にそう言った。
「だれかに刺されちゃってん。
・・・・
・・・・
わ〜ん!!!!」
息子がかけよってきて、私にギューッと抱きついた。その抱きつく力があまりにも強かったので、ちょっとびっくりした。
「りんりん、夢だから大丈夫だよ。母ちゃん刺されてないし、生きてるし。だから大丈夫大丈夫。」
そう言いながら、頭をよしよしとなでてみたけれど、息子は私にしがみつくようにして、ひたすら泣き続ける。
「りんりん、抱っこしたろ。」
息子の両脇に両手をそえて、エイッともちあげて、お尻を支える。
重い、重たすぎる。
おんぶはまだまだするときもあるけれど、抱っこするのはすごく久しぶりなような気がした。抱っこって言われたら、おんぶならいいよ、と私が言うからか。
でもこういうときは、抱っこじゃないとダメなような気がした。
抱っこは、胸と胸がぴったりくっつくから、心と心が通いやすいような気がする。おんぶは、同じものを同じ目線で見るのにはいいけれど、こういうときはやっぱり抱っこだよな、と思う。
でもすぐに限界を感じて、息子を抱っこしたままソファにドカッと座って、ごまかした。
「母ちゃん、痛かったよね?」
まだグズグズ泣きながら、息子は私にそう聞いた。
「いや、夢の中の母ちゃんと、現実の母ちゃんは、別物だから、母ちゃんは全然痛くなかったよ?」
息子の中で、"夢の中と母ちゃん"と"現実の母ちゃん"が、ごっちゃになっているような気がしたので、そう答えた。
「そうじゃなくて、僕の夢に母ちゃんが出てきたってことは、母ちゃんも僕といっしょの夢をみたってことでしょ?母ちゃん、夢の中で刺されて痛かったでしょ?」
「母ちゃん今日は夢みてないよ。」
「そうなの!?母ちゃんも同じ夢みてるのかと思った。」
「夢はりんりんオリジナルやで。今日の朝、りんりんと全く同じ夢をみてた人はいないと思うよ。夢ってふしぎだよね。」
「オリジナルってなに?」
「"りんりん専用の夢"ってこと。」
ソファの上で抱っこしながら、そんな話をしていると、少しずつ涙が止まっていった。30分近くも時間が経っていたので、急いで朝ごはんの準備をした。
「てか、"母親が刺される夢"ってどんな意味があるんやろ?」
父ちゃんが発した、ふとした質問。
たしかに。夢占い的にはどんな意味があるんだろう。気になって気になって仕方がなくなってきて、「母親が刺される夢」とググってみた。
すると、「自立」という言葉がポーン!と飛び込んできた。どうやら母親が刺される夢は、夢占い的には「母親からの自立」という意味があるらしい。
リビングで遊ぶ、まだ4等身ほどの息子が目に入る。「母ちゃーん!みてみて!」と言いながら、変な動きをしている。朝の涙はどこへやら、すっかりいつも通り。ケラケラと笑う顔が、ツルツルとしていた。
「自立」という言葉が、なんて似合わないんだろう。
そう思いながら、心の中でクスッと笑った。
その日の夜、お風呂場に入ってきた息子の手には、自分が今日着た服がにぎられていた。
「ぼく、自分の服は自分で洗います。」
高い高い声でそう言いながら、洗面器に泡のボディソープをたっぷりと入れて、自分の服をゴシゴシと洗い出した。
急にどうしたんだろう?と不思議に思いながらも、自分の服を洗う、その真剣なまなざしを見ていると、「自立」という言葉が頭の中にフワッと浮かんできた。
お風呂からあがってごはんを作っていると、息子が寄ってきたので、ニンジンを切ってもらった。
「自分で使ったまな板は、自分で洗います。」
高い高い声でそう言いながら、小さな小さな手に泡のハンドソープをたっぷりと乗せて、まな板をゴシゴシと洗い始めた。
急にどうしたんだろう?と不思議に思いながらも、自分の使ったまな板を洗う、その真剣なまなざしを見ていると、またまた「自立」という言葉が頭の中にフワッと浮かんできた。
いや、泡のソープを使いたいだけなのか?
本当のところはよくわからないけれど。
母親が刺される夢をみたその日の夜、なんだか息子は、いつもよりも「自立」という言葉の似合う男の子になっているように感じた。
というよりも、私が「自立」という言葉を意識しているせいで、息子の「小さな小さな自立のカケラ」を見つけるのが上手になっているからかもしれない。
「小さな小さな自立のカケラ」は、意識して探してみると、毎日きっとたくさん見つけることができるんだろうな、と思った。
よくよく考えてみると、
歩けなかった息子は、
今スタスタと歩いている。
自分でごはんを食べられなかった息子は、
今はこぼさずごはんを食べている。
何度も目を覚まして、そのたびに抱っこしないと眠れなかった息子が、今は一晩中ぐっすり眠っている。
オムツをはいていた息子が、自分でドアをあけてトイレに入って用を足す。
小さなティシャツの袖に腕を通してあげていたのに、今は自分で服を選んで、自分で服を着る。
毎日毎日いっしょにいると、
毎日の進歩は小さすぎて気づきにくいけれど
息子は確実に着実に
「自立」に向かっているんだな、と
なんだかしみじみとそう感じてしまった。
朝、息子を抱っこしたときの、どっしりと重たい感じを、ふと思い出す。
怖い夢をみて大泣きしちゃうなんて、まだまだ子供だな、という気持ちと
抱っこできるのなんてあと少しなのかもしれないな、と感じずにはいられない、息子の重み。
それらを同時に感じると、愛おしくて愛おしくて、そしてまだまだ幼い息子との日々が儚くて儚くて、
胸がギュンッと痛んだ。
猫たちにガリガリされないように、猫たちの届かない場所に置かれているピカピカのランドセルが目に入る。
来年には小学生だ。
自分の足でテクテクと小学校に向かう息子を想像して、また頭の中に「自立」という言葉が浮かんできた。すると、また少し胸がキュンッと傷んだ。
今までは、息子の成長がただうれしかったのだけれど。
"うれしい"と"ちょっぴりさみしい"を同時に感じる気持ちを知った、今日このごろだ。
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