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友達って何だろう?

大人になると、なかなか友達はできない。


そんなようなことを言う人もいるけれど、私には大人になってから友達ができた。

その友達は「美理」という。私は「みり」という響きがすごく好きだ。


3年前くらいまで東京のヨガスタジオでインストラクターをしていた。そのとき、美理と出会った。大阪出身同士だということ、そしてヨガが好きだという共通点があり、いつのまにか仲良くなっていた。毎日会社で会い、そして忙しかった会社生活の貴重な休日にも遊ぶようになり、いつも2人でゲラゲラ笑っていた。


笑いすぎて息ができなくなる。心の底からこみ上げてくるおもしろさ。目の前にいる好きな人が自分と同じことで笑っているときの心がつながっている感覚。こういう瞬間のために生きてきたのかもしれないと思うくらい心地がいい。


会ってしゃべって楽しいな、話しやすいな、なんとなく居心地が良いな、という人はいても、心の底から笑い合える友達にはなかなか出会えないものだ。少なくとも私は、そんな友達は数人しかいない。


そして、私は友達が○人いる、と断定することもできない。私は日々変わっていき、相手も日々変わっていく。考え方が変わり、興味のあることが変わり、選ぶものが変わっていく。住む場所が変わったり、生活スタイルも変わっていき、頻繁に会えなくなることもある。

以前、久しぶりに友達と会ってしゃべると、なんだか前のようにしっくりこないなと感じたときがあった。それはきっと、離れて過ごす日々の中でお互いが変わっていき、あの頃のようにぴったり合わなくなってしまった。ただそれだけのことだけれど、あの楽しい日々が懐かしくて戻りたくて、私の胸はギュンと痛んだ。


そんなことがあったので、「久しぶりに友達に会う」ということが私はなんだか怖かった。だから、出産を期に私が大阪に戻ることになって離れてしまった美理と、昨日3年ぶりに会うことになったときにはちょっぴりドキドキしたのだ。


私の家の最寄り駅で待ち合わせをして、いつも息子と二人乗りをしている自転車で駅に向かった。駅に美理の姿を見つけたとき、私は3年間会っていないはずの美理を、まるで1週間前に会ったかのように身近に感じた。会った瞬間にしっくりきて、なんだかホッと安心したので、いつもの調子で冗談を言ってみた。

「ここ座る?」

自転車のチャイルドシートを指さして私はそう言った。冗談で言ったつもりだったのに「座る座るー!」と言って普通に乗り始めた美理を見て、余計に安心した。

いつも息子が乗っている場所に美理を乗せて自転車をこいでいると、なんだか3年前に戻ったみたいで楽しかった。でもきっと3年前と同じに見えても、私も美理も3年前とは全然ちがう。細胞も心も全部入れ替わるのには十分な歳月を離れて過ごしてきた。でも今また一緒に、二人乗りをしてゲラゲラ笑い合えていることが、なんだか奇跡のように思えた。


東京に住んでいる美理とは、これからもきっとたまにしか会えないけれど、ずっと友達でいられたら嬉しいなと願っている。でも私には願うことしかできない。次に会ったときにまた同じように笑い合える保証なんてどこにもないのだ。だからこそ、今こうして笑い合えている瞬間を大切にしたいなと思った。





友達って何だろう。


そんな問いが湧いてくることがある。



「腹の底から笑い合える人」


それが、その問いへの私なりの答えだ。



日々人と関わる中で、言葉を交わす。その会話の中で笑い合ったりはするけれど、そのほとんどは「のどから笑う」という感覚が強い。それは人間関係を円滑にする笑いだ。


その人のことをおもしろいと思い、腹の底から笑えたとき。そして相手も、同じように想ってくれていることを肌で感じたとき。

私はその人を友達と呼ぶ。




でも「友達」は期間限定なのかもしれないなと思う。その時いる場所、その時の自分の状態、その時興味のあるものなどで、腹の底から笑い合える人というのが変わっていくのはもしかしたら当たり前なのかもしれない。


ずっと同じ人なんていない。同じように見えても内側ではじわじわ変化し続けているのが人間だと思うからだ。

だからこそ、ずっと友達でい続けることはなかなか難しいと思うのだ。



でもなぜか、ずっと友達でいられる人というのが、人生でほんの数人だけ、いるのかもしれない。

変化するスピードがなぜか一緒なのかもしれないし、向かいたい方向がなぜかいつも一緒なのかもしれない。

そんな人のことを、私は「親友」と呼ぶ。

そして私は美理のことを「親友」だと思っているし、そうでありますようにと願っている。






私は1人で過ごすことが好きだし、そのことが平気だし、楽しめたりする。

それでも、家族がいて、今笑い合える友達が周りに何人かいて、思い出しただけでなんだかパワーが湧いてくる親友がいる。


それだけで、人生の輝きが何倍にもなるような気がするのだ。





でも、友達は多くなくてもいいと思う。


この間、息子の幼稚園で懇談があった。先生いわく、3歳の息子には同じクラスに友達がいないそうな。でも違うクラスに1人だけ気の合う友達がいて、クラスでさようならをした後に、お互いがお互いのクラスに迎えにいって一緒に遊んでいるらしいということを聞いた。


家に帰って息子に聞いてみると

「僕の友達は○○くんだけだよ」

と言った。その息子の潔くてきっぱりした感じを、なんだかいいなと思った。


息子は幼稚園に行くのを嫌がらなくなってきた。

友達が1人でもいたら、それだけできっとその場所は、行きたい場所になっていくんだと思う。






時は流れていく。

友達がいない時期もあれば、
友達ができる時期もある。


友達は作ろうと思ってできるものではないのだ。


だから、友達はいないときがあってもいい。でも、いたら楽しい。そして、今いなくてもできるときが来るだろうし、今いてもその人がずっと友達だとは限らない。


ずっと誰かといることはできないし、
ずっと1人でいることもできない私たち。


だからこそ、今友達だと思える人との時間を今この瞬間に存分に味わおう。そして、1人のときはその時間を存分に味わおう。


1人でいる時間が、友達といる時間を輝かせる。
友達といる時間が、1人でいる時間を輝かせる。


32歳になった今、そんなふうに感じている。

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