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ママの「プチ1人部屋」の作り方。

"1人の時間"ができたとき、

「今なにをして過ごしたい?」

と自分に問う。





気になってたいたあの本を読みたい。
大好きなあの本を読み返したい。

あの動画をみたい。
あの動画で勉強したい。

noteを書きたい。
ブログを書きたい。

手帳にゆっくり気持ちをつづりながら
モヤモヤしている心と向き合いたい。



本、動画、note、ブログ、手帳。


私の1人時間は、
それらがあればだいたい満たされる。


すべて、家の中で完結できることなので
家の中で過ごせばいいのだけれど。



一人暮らしを終えて、
結婚して息子が生まれてからは
もう一つ"条件"がつくようになっていた。




「カフェで」


という"場所の指定"だ。




家でできることなのに、どうしてカフェでやりたいんだろう。でも家の中でそれらをやっていても、いまいち気持ちが乗らなかったりするんだよなぁ。



それはなんでだろう?と自分の心に問いてみると、意外な答えが返ってきた。



「家の中は、"お仕事だらけ"だから。」



その答えに、妙に納得した。





一人暮らしをする前は実家にいて、そのとき家は「休む場所。のんびりする場所。」という感覚だった。

一人暮らしをはじめてからも、それは変わらなかった。最低限の家事はやるけれど、1人分の洗濯なんて今思えば楽勝だし、ごはんは買ったり外食したりが多かったし、そうじだってワンルームの部屋だからすぐ終わる。なにより、自分のペースでやればよかった。



結婚してから、そして息子が生まれてから、家の中に「仕事」が生まれた。


"働くこと"は"傍を楽にすること"なんてよく言う。そういう意味では、"主婦"という仕事は、まぎれもなく「仕事」であるといえる。



家の中には仕事だらけ。

ただゆっくりする場所だった家が、いつのまにか「職場」のような感覚に近くなっていたのかもしれない。




家で1人で過ごしたとしても、いろんなものが目についてしまったり、気になってしまって、ついコソコソと働いてしまう。するといつのまにかすごく時間が経っていて、自分がやりたいと思っていたことの半分もできなかった・・・と感じることが多くなっていった。



容赦なくたまっていくホコリ

容赦なく増えていく洗濯物

毎日確実に減っていく冷蔵庫の食材

あと数時間後にはあのキッチンに立ってごはんを作っているであろう自分の面影・・・



それらがふと目に入ってしまうと、私の"働けスイッチ"は自動的にオンになってしまって、「後で楽をするために!後で快適に過ごせるように!」と体が動き出してしまうのだ。






カフェに行くと、本当の意味で「休める」ような気がした。


それはきっと、私のために働いてくれる人の存在が心地よかったのだ。もちろんお金は払っているのだけれど、店員さんが何を飲みたいのか聞いてくれて、コーヒーをいれてくれる。その空間はきれいに整えられていて、私がやらなきゃいけないことは何もない。だから今やりたいことに集中できる。


実家ではかつて母が家の中で働いてくれていた。だから子供の私は何も気にせずに、やりたいことをやれていたんだ。休めていたんだ。だから今度は私の番。そういうものなんだ。



そうやって納得しようとする自分もいるのだけれど、「家を飛び出して、カフェに休みに行く自分」がなんだか悲しくもあった。



私の家は確かにここなのに。
私の戻る場所は確かにここなのに。












家の中に「休める場所」を作れないだろうか?

1人部屋があればいいんだけれど、私が部屋をとってしまうと、息子の将来の1人部屋がなくなってしまう。



そんなことを考えていると、ふと「ネットカフェ」が頭に浮かんだ。


仕切られていて、目の前にはパソコンしかない、小さな小さな自分だけのスペース。自分だけの空間。






家族共有のパソコンとプリンターが置かれているスチールラックが目に入る。


息子が幼稚園に入る前、コロナで父ちゃんの仕事がリモートになった。机を買うお金の余裕がなかったので、スチールラックの位置を調整したり板を敷いたりして、机がわりにして使っていた。それがそのまま、将来息子の一人部屋になる予定の部屋にポツンと残っていたのだ。



ふとひらめいて、そのスチールラックをクルッと移動させてみた。

壁に貼りつけていた大きなタペストリーをベリッとはがして、洗濯バサミでスチールラックに吊り下げてみた。




うっかり、小さな小さな一人部屋ができてしまった。



椅子に腰かけてみると、目の前にはパソコンとお気に入りの柄のタペストリー以外には何も目に入らない。仕事の気配を、背中から感じることもない。



お、落ち着く・・・・



思った以上に落ち着くことにビックリした。




家の中で、この場所だけは

主婦じゃなくて
ママじゃなくて

1人の人間としての私が
やりたいことに集中できる場所。

私が私に戻る場所。



そんなふうに感じた。






私たちには、いろんな「役割」がある。

ママとしての役割
主婦としての役割
職場での役割
地域での役割
友達や仲間内での役割・・・



だれと居たってどこに居たって、「私は私」であることには変わりないのだけれど、


自分でも気づかないくらいの感じで、その役割にふさわしい言葉や言葉遣い、雰囲気や立ち振る舞いを、無意識に選んで演じているような気がする。


それを悪いことだとは思わない。
むしろある程度は必要なことだと思う。



でもだからこそ、「役割」という"お洋服"をズルッと脱いで過ごす時間は、きっと必要だ。




1人で裸んぼうの時間を過ごしたあとの私は、

まるでお風呂上がりのようにサッパリとした気持ちが戻ってくる。


そして、脱いでいる間にパリッと乾かしておいた服を新たな気持ちで羽織り、

自分の"役割"を、また楽しみ始めることができる。



だから、

"ママの役割"や"主婦の役割"のニオイが濃ゆい家の中に、「裸んぼうの私に戻れる場所」ができたことは、なんて心強いことなんだろうかと思うのだ。

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