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「僕はそんな言葉を使っていない!」と電話でお叱りを受けた話

今年(2021年)うれしかったことのいくつかのうち、仕事においてだったら一等賞だったのは、ライティングを担当した記事で取材相手に

「言いたかったことが書いてあった。お見事!」

と評してもらったことでした。……実際には、編集さんへのメールを私に教えてもらう形で伝わったので、ライティング自体というより記事全体に対する評なのだけど、自分への評価とポジティブに受け止めているw

その記事は対談で、わーっと話が盛り上がったのだけど、対談したお二人は業界でトップレベルなので、そのまま書いても読者視点では思考が追い付かない(何なら私も現場では3割くらいしか理解できていなかった←よくある)。なので、「語られた本質は何か」「それをどの順番で構築すれば、読者が”自分ごと”としてすんなり受け止められるか」を時間をかけて考えて書いたものだった。

ほんとうに話されたことは何か、話したかったことは何か。それを見つけようとするのはここ数年で自分がわりと意識してきたことだった。なので、取材相手にもらった言葉によって、ここまでの思考と実践がちゃんと評価いただけたのだと思い、すごくうれしかったのだ。

同時に、この一件がすぐに10年以上前の記憶と結びついた。それが、タイトルの「僕はそんな言葉を使っていない!」という指摘。私は、冒頭の原稿でも、この指摘を受けた原稿でも、その場で語られていないことを書いた。なのに、方やほめられ、方や怒られた。これは何が違うのか。自分の中でこの事件は何度も振り返ってきたことだけど、改めて書いてみたい。

5年目編集者、電話口でお叱りを受ける

当時、私は出版社の社員編集者をしていて、月刊誌を担当していた。前職の出版社での経験と合わせて5,6年目くらいだったと思う。

担当するのは月50ページほどで、なかなか過酷。学んだことはとてつもなく大きいが、過酷だった。うち2割くらいは目次などのほとんど手がかからないページだったけれど、4割ほどは著者がいる連載ページで、残りが企画・取材依頼・取材・執筆・確認などすべてを毎号ゼロからつくるページだった。

めちゃくちゃ忙しくて、言い訳なのだけど、1本1本の取材で音声起こしをちゃんとできていなかった。

そんな中、よりによって言葉を専門とする大御所の方に取材することになった。言葉がずばりのテーマではなかったにせよ、当時その方が興味をもって取り組んでいたことだったこともあって受けていただき、1時間。録音はしていたが、雑誌の校了日=締切は刻々と迫る。私はその話をわかった気になって、浅い走り書きのメモと自分の記憶だけで雑誌記事1ページの1000字を書いてしまった。

編集長チェックを経て、原稿をメールする。その時点で、ちゃんとできていないことに気付いてもいなかった。

送信後、数分。本当にすぐだったと思う。編集部の電話が鳴って、受話器をとる。電話に出たのが担当編集だと分かるやいなや、その方は語気を強めて言った。

「〇〇って書かれているけど。僕はそんな言葉を使っていない!」

提出した1000字の中に、私は当時におけるバズワードのように言われていた「〇〇」というカタカナ横文字を使っていた。それは自分が話した言葉ではない、と指摘されたのだ。

浅い理解、浅い思考。浅はかすぎる自分

たしかに実際に語った言葉ではなかった。けれど当然、取材原稿は語った言葉がそのまま記事にはならない。意訳することはよくある。そのつもりで、話を聞いている最中だったか原稿を書く段階だったか、とあるくだりについて私は「あ、〇〇のことを言われているのだ」と考え、置き換えた。この言葉を使えば、その人が一定のボリュームで語ったくだりを、ひとことで収められる。これで数十字が浮く、よかった、と思った。

(Webを中心に仕事をされている方に補足すると、紙媒体は大前提としてスペースに限りがあり、限られた文字数でいかに適切に仕上げるか、が絶対条件になる。語られたことに優先順位をつけ、そのときどきのページの主旨や特集全体における役割を果たせるように内容を取捨選択する作業が、Web原稿よりとてもシビアに求められる……と私は捉えています)

送信時、特に自信がないとか危ういなといった意識もなかったので、電話をとったときは「受領したよ、という確認をわざわざくださったのかな」くらいに思っていた。そこでガツンと怒鳴られて、あたまが真っ白になって、どう受け答えしたのかも思い出せない。けれど、平謝りしながら「〇〇」を採用したときの自分が即座に浮かんだ。

その言葉を、当然ながらその人も知っていたはずだ。けれど自分のインタビューで使わなかったのは、その人が一定のボリュームで語ったくだりは、その人の思考においては世間で言われる「〇〇」とイコールではなかったからだ。私がもっと丁寧に、語られた言葉をかみしめながらその背景にある思考を知ろうとしていたら、〇〇ではないことに気付けたかもしれない。

いや、未熟ゆえに、気付けなかったかもしれない。けど、少なくとも「丁寧に取り組んだ」ことは伝わったかもしれないし、自信がなかったら「こう理解したのですがどうでしょうか、違っていたらすみませんがご教示ください」と付記できたかもしれない。

そのときの自分の浅い理解、浅い思考。自分なりに考えたつもりが、逆にその人の使った言葉を軽んじてしまったことを恥じた。悪気がないのがさらにまずい。なんで、私、こんな大御所の方にお時間をもらいながら、丁寧にできなかったのか。最悪だ。血の気が引きながらすぐに音声を起こして、言葉を確かめ、修正して送り直し、OKをいただいたのだった。

語られた言葉を軽んじてはいけない。実力が十分じゃないのだから、自分より知見がある人の言葉をその現場だけで理解した気になってはいけない。そこをカバーするには、言葉に真摯に向き合うしかない、言葉の背景にあるその人の思考を知ろうとしないといけない。この数行をその当時すぐ思えたわけではないけれど、気付くきっかけになった、電話口で叱ってくださった方には今となっても感謝しかない。

すべての意訳に必要なことは

冒頭の「言いたかったことが書いてあった。お見事!」との言葉は、経験不足以上に、残念なことに無自覚に敬意と熱意が不足していた20代のころの自分を十何度目かに思い起こさせた。若い、という言葉では片付けられない。なぜならその雑誌の向こうにいる読者にとっては、自分の持つ貴重なお金からいくらかを払い貴重な時間を割いて読むその価値においては、つくり手が若く未熟なことは1ミリも関係ないから。そして、貴重な時間を割いて後進の役に立つならと取材を受けてくださった取材相手にとっても、関係ないから。とても、失礼なことだったから。

繰り返すけど「話されていない言葉を書く」のは当然で、そうじゃないと単なる音声起こしであり、編集やライターという伝え手が介在する意味がない。それは、適切に「伝える」という役目を果たしていない、とも思う。

話されていない言葉を書いて叱られた当時と、ほめていただいた今年の原稿で、何が違ったのか? それは、どれだけ解像度高く、その人の言葉の背景にある真意を汲み取れているか、だと思う。

深い理解と、深い思考。ほんとうに話されたことは何か、話したかったことは何か、をつかもうとすること。あきらめないこと。それが合っているかを何度も確認すること。時間をかけて丁寧に、自分は特に要領が悪く不器用だからとにかく丁寧に心がけること。

併せて、私はマーケティングという特定の領域で主に仕事をしているから、その領域や業界の理解も不可欠だと、年々強く感じるようにもなった。これまでたくさん業界の原稿を書いているけど、取材相手より私のほうが業界理解があることは1回もなかった。私は、その内部にはいないから。だから、前提知識が大事。それを蓄積するためにも、走り続けないといけない。遅れてしまう。何が語られているか、わからなくなってしまう。

そういうふうに、気付けば仕事をしてきた。なので冒頭の言葉は、苦い一件を思い起こすと同時に、そこからの学びに従ってきてよかったのだと、祝福されたような気持ちにもなった。ありていな言葉だけれど、救われたのだと思う。

うれしくて、メールで教えてくれた編集さんにもうれしさ爆発の返信をしたし、心の中で「今年の言葉」として額装して飾った。言いたかったことが書いてあった、読者目線に寄り添ったプロの仕事だという評が、心の中で燦然と輝いている。この評をくださったKさん。そしてきっとご本人は覚えていらっしゃらないだろうけれど、電話口で若輩者に指摘くださったTさんに、改めてありがとうという気持ちでいっぱいです。

人に話し、書くことで、何度も学ぶ

あの事件以降、仕事量が減らない中でも、できるだけ音声起こしをするようになった。フリーランスになって以降は必ずしているし、AI音声起こしが発達した今となっては、1時間取材で手で起こせば15000字のところ、不要な言葉尻まで拾うAIの起こしを元に聞き直す(細かいところや業界用語までは捉えられないのでそれを補完する)と25000字にもなるのだけど、それでもその量に向き合う。なので、ここ何年も音声起こしについて一定量考えているが、それはまた別の話……。

ここからはメタ的な話だけど、この「僕はそんな言葉を~!」の話があまりにも私の編集ライター人生の中で大きくて、長らく誰にも話してこなかった(というか失敗談はあまり積極的に語られないものですね、当事者として今実感した)。で、今年はフリーランスが長く部下も後輩もいた経験もない私にとって、初めて「若い編集ライターさんや志望者さんにお話しする」機会を持たせてもらった年で、この話を8月に行われた「ライター100人カイギ」vol.18に登壇させてもらった際に紹介したのでした。

それでこの一連の経験と学びをちゃんとnoteでも書こうと思いながら、早数カ月……。年の瀬だし、下書きをひとつ仕上げたいと思って、書きました。その過程で、これまで自分の中だけで何度も考え直してきた事象を、人に話したり、さらに書き表そうとすることで、また新たに学びを得られることがよくわかった。なんだろう、すごい、スルメのようなw 噛めば噛むほど味わえる。それだけ、私の仕事人生にとって大きなできごとだったし、それを救ってくれるできごとを今年得ることができたのだと、なんとかそこまでたどり着けたのだと、今また噛みしめている。

もう少しで紅白歌合戦が始まる。今年の学びとしてまだ書きたいことがあるけれど、またぼちぼち書きたいと思います。来年も、ひとつひとつの仕事を大事に、地道にがんばっていきたい。心の中の額装が増えますように。

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