見出し画像

学生時代の忘れ物(軽井沢4)

昭和59年8月の軽井沢旅行の初日、私の地元の地方都市では地方博が行われていた。この頃、列島各地で地域振興の一環なのか、地方博が盛んだった。

私は友人とともに、私の住む町から電車に乗って地方都市に向かった。市街地からバスに乗り、博覧会の会場に着いて、暑い中を、予備校勤めの友人A、広告代理店勤めの友人Bと一緒に歩いた。

 Bは「久しぶりに再会して懐かしかったよ」と言って、私の知っている東京の大学時代の男1人、女1人の名を出した。

 会場では、ミス東京やどこかの企業のコンパニオン、21世紀館と名付けられたパビリオンを見て回った。

市街地に戻ると繁華街を歩き、ラーメンを食べた。

それから、軽井沢の地名が題名に含まれるポルノ映画に、私たちは気を引かれて鑑賞した。内容は軽井沢を舞台にした、有閑夫人が主人公の映画だった。

 また電車で私の住む町に戻った。東京生まれ、東京育ちのBは、私の家の最寄りの駅の様子に驚いていた。

「田舎って暗いなあ」

降車駅では、乗客も少なく、駅の周囲に照明は少なく、人影も物音も少なかった。確かに都会は夜でも明るく、騒がしい。

私の家に戻ると、酒盛りが始まった。Bは現在、恋人との結婚を考えている。その話題が酒の肴のひとつになった。

 

軽井沢旅行2日目。

自宅から私たち3人は、私の自家用車で出発した。朝食には、私の母が漬けたたくあんが出た。都会者のBは、ためらって食べなかったようだ。

軽井沢の高原に関東から向かうと、途中で難所の碓氷峠を越える必要があった。それが私にとっての軽井沢旅行の玄関口だった。当時、その峠は、中山道の旧道か碓氷バイパスで越えるしかなかった。

旧道は、この昭和59年以降に一度、私はひとりで走ったことがある。道は砂利敷きのままで、両側は高い木立に囲まれて、日は差し込んでいない。つづら折りが延々と続く。

ガードレールはほとんどなく、道幅も狭い。誤って道を踏み外せば、深い谷が足元に口を開けている。好きこのんで通るような山道ではない。

それでも、地元の人たちなのか、軽トラックやバイクが意外に速いスピードで、後ろから追い立ててくる。

私は、この旧道はもう通らないと、その時に思った。

それから20年30年が経って、現在では鉄道も道路も整備された。長野新幹線が開通して、北陸新幹線と名を変えた。上信越自動車道も開通した。

かつての昭和には、北関東の自宅から軽井沢の駅まで、自家用車で4時間近く掛かった。令和の今では、自家用車でも新幹線でも、1時間半で着いてしまう。以前は、泊まりは覚悟の上でこの高原の旅行に出発した。今ではその気になれば、日帰りができてしまう。

 

この年昭和59年、私たちは長時間のドライブの後、旧道ではなく碓氷バイパスを抜けた。例年通り、薄着で肌を露出してサイクリングしている若い娘たちに目を奪われて、3人は盛りのついた猫のように車中で騒いだ。

 中軽井沢に移り、駅前の有名なそば屋で、昼食を取る。有名な広告代理店の女子社員がいることに、目ざといBが気づいて色めきだつ。

 北軽井沢へ舗装された広い道路をたどり、照月湖のそばの貸別荘に着いた。整備された森林に囲まれた、町の喧騒を忘れさせる環境だった。

 夕方になると、約束通り学生時代の友人Cがやって来た。

 夕食を作っていると、夜になってDをやってきた。

 これで、学生時代に軽井沢で青春を謳歌した仲間たちの男の面々が顔をそろえた。酒盛りして、花火を楽しんだ。

Cは、やはり中部地方の地元の新聞社に勤めている。酒を飲んで、元気よく笑いながら、別荘の中で暴れ回った。別荘の外では、花火をする若い女性に声をかけてきた。

 そのうち、Cは旧友の顔を見て感極まったか、同棲していた女子学生のことを思い出した。その女性とは、卒業後別れていた。

彼は女性と別れて地元に戻って、破れかぶれの所業か、「そうだな」と指折り数えて、「8人の女と経験したな」と、いい気になって告白した。

当時私は、その女性と友人として文通していた。近況をCから聞かれて、言葉を濁した。

Cは壁に物をぶつけ、「どうして教えてくれないんだ?」とつぶやいた。

私は、しかたなく、その女性の結婚の大安の予定を告げた。

Cは一度、酔狂を起こしたかDと車で外に出かけて戻ってきた。

Dは学生時代より20キロも太り、顔かたちが変わっていた。中部地方の会社に勤めていた。建設業の仕事でその晩にとんぼ返りした。

Cは、また私に聞いた。相手は前の男か。そうだ。

Cは深酒して座敷に大の字に寝そべった。

私は、結婚を申し込まなかったのか、と尋ねた。

「何回も申し込んだよ」

「あいつも、お前のこと好きだったんだろう?」

「多分、あいつの体を求めるようになってから嫌いになったんだ」

 「そうか。男らしく、愛する女の幸せを祈ってやれよ」

私はそう助言した。

Cは天井を見上げ、泣きながら女性の名を、何度も大きな声でつぶやいた。

 青春は振り返ると、あれこれと悲しかった。私は好みの女子学生に恋心が通じなかった。Cは別れたきりの女子学生に結婚されてしまった。一方、AとBは同じ女子学生に友情をかき回されていた。

 

軽井沢旅行3日目、Cは車を飛ばして帰った。私たちは照月湖の湖面の見えるコートでテニスを楽しんだ。そのうち暑くてウェアを脱いで、裸でプレイした。

 近くの貸別荘の女性たちを誘うと、すでに先約がはいっていた。ほかの別荘の若者から声をかけられていたようだ。

その晩は、漆黒の夜の森の闇の中を、3人で散歩した。奥深い山中で近くに明かり一つなく、数歩先が見えない暗さだった。都会者のBは、こんな闇は見たことがないと、再び驚いていた。

 

軽井沢旅行4日目、移設された塩尻湖のそばの軽井沢高原文庫を見て回った。堀辰雄の別荘が移築され展示されていた。

アーチェリーを楽しみ、湖面を見ながらボートを漕いだ。

それから、旧軽井沢のテニスコートのそばのペンションに荷物を降ろした。

夕方、Bは先に帰った。夜になると、私とAはペンションのそばの諏訪神社の祭りを見に出かけた。出店の明かりが夏の夜に映えていた。避暑に来た客が参道を往来していた。

神社でも軽井沢銀座の通りでも、若者のグループがあちこちで若い女性に声をかけていた。その光景に私たちも刺激を受けて、女性たちを物色した。Aは誘いたがっていた。

 女性たちをペンションの中などで何度もナンパしたが、失敗した。

皮肉にも、私たちが出会ったのは、自分たちが在籍する大学の学部の教授のひとりだった。テレビに出ている有名な教授で、人込みで少し立ち話をした。

 私はその晩Aに、心が打ち解けたせいか、自分が卒業の時に同級生の女性に求婚し、色よい返事は得られなかったことを打ち明けた。

 

軽井沢旅行5日目、Aと2人でテニスを始めたが、間もなく、にわか雨で中断した。

 午前中はAの小遣いが減ってきて、その資金繰りのため、軽井沢からわざわざ小諸まで車で行ってきた。

 ペンションに戻ると、また新しい女性の宿泊客が来ていて、目を奪われた。

 午後はそれぞれ個別行動にした。

私は軽井沢銀座の近辺を歩きまわった。

Aは、大学の学部のもう一人の教授Eに会ってきた。軽井沢の別荘の住所を聞いて知っていた。結構なご身分とでも言ったらいいのか、知り合いの大学教授は、あの人もその人も、夏は軽井沢の別荘で過ごしている。

E教授は、大学教授であり同時に作家だった。

私が選択していた彼のセミナーで、そのような批判を受けていて返答に窮していると言ったことがある。

同級生のひとりは、彼の作家業に関してある逸話を告白した。その兼業教授と酒を飲んだ席で、もう少しで「先生の小説って、どうしてあんなにつまらないんですか?」ともう少しで言ってしまいそうだったよ、と。

私は、というと、E教授のことを才能よりも教養が感じられる作風かと思っていた。直接話したことはなかった。紳士然として、普段から品のよい物静かな人物という印象があった。作品が面白いか、つまらないかは一概に判断していなかった。

同級生と同じように、皮肉な目で彼を見ていた人物がほかにもいた。同じ学部の女性の当時の助教授だった。

「○○先生は、フランス文学科の先生なのに、小説を書くときは日本語なんですよね。どうしてフランス語で書かないのかと、私は不思議なんですけど」

その女性はそう言って目を宙に浮かばせた。私は、どうしてそんなことを言うのか、真意を測りかねた。他人をひがむ噂高い人間は、どこにでもいるものかもしれない。

 

軽井沢旅行6日目、今日の遊びは南軽井沢のサイクリングに始まった。晴れ上がった空のもとで、ミニゴルフという、パターの練習のような遊びに興じる。サイクリングマップを片手に国道沿いの、森に囲まれた軽井沢町資料館で、津村信夫という詩人の足跡をたどる。図書館も巡り、こんな別荘地帯に存在する文化施設を不思議な気持ちで眺める。有名人の別荘から墓地を巡り、旧三笠ホテルを見て回る。

夕食の話になり、ペンションのフルコース料理に、Aは飽きたと本音を漏らす。

 そこで、うわさを聞きつけて軽井沢銀座の餃子会館に向かい、狭いが避暑客で混んでいる店内で食事をとった。この餃子会館は、その後いつのころからか、やがてなくなってしまう。


軽井沢旅行7日目、滞在の最終日を迎えた。

軽井沢銀座の辺りを散歩して、喫茶店に入り、土産を買い、ラーメンで昼食をとり、早めに出発した。

 自家用車を運転する私は、高崎でAをおろした。恋愛や文学や人生や、いろんな問題をすぐには解決できずに保留にしたまま、またお別れか、と私は彼に言った。電車に乗る彼の姿を見送った。

 1週間軽井沢の高原にいたことになる。自分たちは過去を忘れ、仕事も忘れて、よく遊んだものだと思った。

 この時期、大学時代に始まった私たちの青春時代に一区切りがついているような気がした。卒業から8年経って、その多くは結婚に向かっている。しかし、みんな少しずつ変わっていくのに、私だけが取り残されて、いつまでも変わらないでいるような気がした。

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?