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ツバメの来る日 第4章 再会とラブレター

(前章までのあらすじ ~ 青木の職場には魅力的な女性が多い。特に弘子のミニスカート姿に目を惹かれる。帰宅すると万里を回想し恋の時代に戻りたいと思う。怪電話が続き、相手の心理が想像される。仕事で福祉の貸付金の回収に行く。貧困問題を考える。思いつめる由美へのラブレターを要する。退職して職場を去る由美を黙って見送る。子供を作っている同年代の人々を知る。片や自分は同じ時に人生を哲学していると感じる。相談所のデートをする。好感は持てたが平凡な女性と会い、交際する気は起らない。)

新年度は6月に入ったが、青木の仕事は一部が新しいものに変わったせいで、やってもやっても終わらなかった。他に担当者はおらず、連日のように残業が続いた。前年度の決算の仕事があり、数字と格闘しなければならなかった。
 本来、青木は仕事より余暇を優先していたが、仕事は一度始まると、それで収入を得ている以上、中途半端に捨て置くことはできなかった。
 そのうち、由美のことを考える暇も徐々になくなっていった。一方ではその姿が日常の視界から消え、拍子抜けがして生活に張り合いがなくなってきた。
 昼休み、青木は気分転換に非常階段の踊り場から外の風景を覗いてみることが多くなった。すると、くびれた腰で大きめの尻を振って歩く女性が、近くのビルにはいっていくのが眼下に見えた。遠目に目をこらすと、それはなんと由美だった。
 由美は市の職場と関係の深い職場に、おそらくはアルバイトで就職し、まだ自分のそばにいることが分かった。その職場は、すぐに歩いていける距離にあった。かすかな喜びが胸の中に生まれてきた。
心の中で、そのうち機会をとらえて、由美に声をかけようと考え始めた。
 そんなあるとき、青木の職場のエレベーターのそばで、赤いミニスカートをはいて立っている由美の姿を見かけた。青木の心はときめき、離れたところから、本人に気づかれないように、ずっと見つめた。
 しかし、青木の心の中には葛藤があった。由美とうまく行って、男と女としてつき合うことになれば、それは喜ばしい。一方で、職場の周囲の人間に2人の関係が遠からず知られることになる。取らぬ狸の皮算用かもしれない。それでも、そうやって人々の噂の対象になり、評判の美人に手をつけた面食いの輩として、自分が注目を浴びるのがいやだった。
 
昼間動き回って、残業になった夕方の6時半だった。青木は職場で急に目を閉じて、机上にひれ伏しそうになった。頭痛でもなく、かぜでもない。初めての症状だ。よく分からないが、過労かもしれない。
急に脱力感があり、どこかに横になり、何かを食べ、長い眠りにつきたいと思った。でも、仕事が残っていると思い返す。
朝食抜きで朝から晩まで、神経の疲れる仕事ばかり続けてきた。役所の仕事は他の仕事に比べて比較的楽かと昔は思っていた。しかし、時と場合によって、心身の疲労が極端にたまる。このところ3,4時間の睡眠の日が続いた。仕事を家に持ち帰って、深夜2時までやったこともあった。その上に昼間の過重労働が続いた。
自分は無理していると自覚するときがあった。休んだ方がいいのに休まないときがあった。栄養と休養が必要だと思った。
 仕方なく、珍しく8時半に役所を出た。車の運転さえやっとで、自宅にたどり着いた。吐き気があった。30歳を過ぎた年齢と、一人暮らしの不安を感じた。部屋に戻り、飯を食い、それから10時間ほど眠った。
 
 次の日曜日も、青木は出勤した。仕事など昔から給料のためと馬鹿にしていたのに、1度手をつけると、中途半端にはできない。しかし、過労の怖さは分かった。これからはのんびり、ストレスを発散しながらやろうと思った。朝食を抜いていたのが悪かった。多忙のため、近頃は電車でウォークマンを聴いたり、昼休みに休憩する時間がなくなっていた。
 しかし、そのうち仕事は、何とか落ち着いた。
 そんなところに、北陸に住む中西から暑中見合いの葉書が届いた。結婚したから、近くに来たら寄ってくれと書いてあった。大学時代の同じ下宿の仲間だった。青木は、友人、知人が面白いように身を固めていくものだと感心し、ため息が出た。
 
とても暑い夏の日、青木が残業してアパートに帰ると、母親から縁談を受けろと催促の電話がまた来た。けんか腰になる。うるさい親は持ちたくないと思う。
 一段落して風呂に入ると、また電話が鳴った。
以前の職場の上司の一人だった。しばらく会っていない。ありきたりのあいさつを交わした。
「お久しぶりですね。最近、どうしてますか?」
 昔から丁寧な口調の上司だった。
「まあ、何とかやっています」
「結婚はしたの?」
「いや、まだです」
 青木は苦笑いした。
「そうですか。実は、私の娘が横浜で銀行員をしているんだけど、こちらに引き寄せたいと思ってね。青木さん、独り身だったら、1度会ってくれないかなと思ってね」
「そうですか」
青木は一息置いた。
「私は好きな女性がいて、色々あって……」
「ああ、そう……」
 しばらく沈黙があった。
「誰か、青木さんの知っている人で、いい人はいないかな?」
「そうですねえ」
一通り話して、青木は電話を切った。
 青木は困り顔になった。冗談じゃない。あっちから、こっちから、娘をどうだとか、考えてみてくれだとか、そんなことにいちいち付き合っていては身が持たない。娘の結婚相手に自分を思い出してくれたのはありがたいことかもしれない。それでも、この人がいいという気持ちより、とりあえず娘を近場に呼び寄せたいという気持ちの方が強いようだ。それに、本人よりその父親を先に知っていて、結婚に進んでいくというのはどんなものか。どんな良い点と良くない点があるのか。
 そう考えている最中に、新聞屋が集金に来た。余りに忙しい。

 あるとき、青木は母親から、由美の件で知り合いに仲介を頼んだと聞かされた。
母親は息子に早く結婚して欲しくて、自分から具体的な行動に出たようだ。青木の実家の近所には、青木の勤める市役所を退職した60歳過ぎの安田という男が住んでいた。安田は青木の上司の大塚に、由美のことをそれとなく尋ねたらしい。
青木は母親の心遣いに有り難さを感じたが、同時に煩わしさも覚えた。仲介者の安田や職場の大塚に対しては気恥ずかしさを感じた。
 由美の魅力には大塚も注目していて、青木はいつだったか大塚が、自ら由美のことを話題に上らせているのを聞いたことがあった。
大塚が独身の青木に、女性関係や結婚問題を以前に尋ねてきたときは、返答に窮して言葉を濁した。
その後、安田を通して、大塚は青木の意中の女性を知ると、青木にそれらしい言葉をかけて、心中を見透かしたような笑いを見せたことがあった。
 
 青木のところに母親から電話があった。安田から返事が来て、由美の友だちのアルバイトの女性英美に尋ねたところ、由美にはもう彼氏がいるということがわかったという連絡だった。
 青木は失望したが、この程度のことは世の中にはよくあることだと、納得しようと努力した。
 母親はそれでも、青木に行動を促した。
「好きだったら、男の方から押していった方がいいよ。女は、男から何度も好きだと言われると、心が動くものだから」
 女としての長年の経験が、そう言わせているようだった。
 青木の弟も、すぐそばにいるんだったら、ちょっと声をかければ、それで済むことだと言っているらしかった。
どの意見も、青木にとっては当を得たものとは思えなかった。部外者には当事者の心情の機微はわからない。
 母親は、青木の細かい感情に気づかう余裕はなく、とにかく早く結婚相手を決めてもらいたがっていた。その母親と、結婚問題を巡る何度目かの口論をしながら、青木は、相手に彼氏がいても、とりあえず心を打ち明けてみようかと考え始めた。ただ、一目惚れしてから1年以上もほうっておいた恋で、今更、気持ちを告白するのはためらわれた。
 しかし、あんなに知りたかった由美の住所と電話番号を、青木はやっと手に入れた。安田が関係者から知って、青木は母親から安田の手書きのメモを手渡された。
 
 それから2,3週間経ったある昼下がりに、勤務先のビルの近くで、郵便ポストのある通りを、青木は何度も行ったり来たりした。今、自分は大変なことをしようとしていると思っていた。自分の姿を誰かに見られているような後ろめたさを感じていた。迷った挙げ句、青木は由美へのラブレターを思い切ってポストに入れた。
 
夏の訪れを感じさせる陽気になった。
 青木は手紙を出したあと、職場で由美と顔を合わせた。しかし、気まずさと緊張感の入り交じった感情を持てあまし、顔を伏せて知らない顔をして、自分から話しかけることはできなかった。
そうして日々は過ぎていったが、由美は待っていても青木の求めた返事をよこさなかった。
 気をもんでいるうちに二週間が過ぎて、青木はとうとう意を決して由美の自宅に電話した。由美と初めて、まとまった話をした。
「迷惑かけてすいません」
 青木は神妙に言った。
「そんなことはないです」
 由美は青木と同様に丁寧に応対した。
「あのう、彼氏はいるんですか?」
 青木がそう尋ねると、前もって聞いていたとおり、
「ええ、一応」
 と軽く笑いながら答えた。
 青木も苦笑いしながら、
「ある程度の年になって、つき合っている相手がいるのは自然なことですよね。つきあってどれくらいなんですか?」
 と冷静を装いながら言った。
「一年くらいです」
 青木は、ひとつため息をついた。
「そうですか。じゃあ、難しいですね、つきあってると情も移るし……」
「でも、友だち程度ですから……」
 由美は取り繕うように一言言った。どうやら、今の交際相手は心に決めた唯一の男性ではないようだった。
 青木は、自分の周囲の者たちが動き回り、住所も電話番号も知ることになったとそれまでの事情を話した。自分が結婚も念頭に置いていることが由美に伝わったと感じた。
「前から気持ちが傾いていたもんですから、手紙を出してしまいました」
 青木が気持ちを打ち明けると、
「今度良かったら、お食事でも」
 と、由美の方から言ってきた。
 青木が有名なアミューズメントパークに誘うと、一緒に行ってもいいと答えた。由美は、そのうち自分から電話すると言った。
 数日後、青木は気持ちが高揚して、親友の秋山に会って由美のことを随分と語った。>
 
 1ヶ月が経ったが、由美からの電話はかかってこなかった。
由美には自分から電話する気が本当にあったのか、青木にはわからなかった。どちらにしても、こういう場合には男の自分の方から電話すべきかもしれないと考えた。
 青木が電話してみると、久しぶりに由美の声を聞くことができた。
「その後、元気でやってるんですか?」
 青木は尋ねてみた。
「勤め先は7月いっぱいで辞めたんです」
「そうですか。これから別のお勤めはするんですか?」
「もう今からは、考えていません」 
 自宅でいわゆる家事手伝いになったらしい由美と自分の関係は今後どうなっていくのか、と青木は考えた。むしろ、仕事を持たない女性なら、男にとっては獲得しやすい女性のひとりになったか。
「以前にモデルやっていたと聞きましたけど」
「1年くらいやってました」
「きれいだもんね」
 由美が小さな笑い声を出したのが聞こえた。
「一緒に食事できそうだってことでしたけど、どんな感じですか?」
「今は、ちょっと低血圧で病院に通ってるんです」
「どんな治療してるんですか?」
「ビタミンを飲んだり、あんまり重い病気じゃないんです」
 どこかで会う約束は、実現しそうだった。
「また電話してください」
 由美は明るい声で言った。
 数日後、また電話してみると姉らしい人が出て、由美は叔母の家に泊まっていると言った。
 青木は自分の年齢や周囲の心配を考えて、由美との関係を少しでも進展させようとあせり、真剣な気持ちでいた。由美の家に4夜連続して電話した。
 電話口に出た由美は言った。
「友だちの結婚式で、横浜に行く予定があるんです」
「僕とあまり会いたくないですか? 気が進まないとか……」
 もしそうなら、連絡をとり続けることは双方のために時間と労力が無駄になると青木は思った。
「そんなことはないです。都合がつかないだけです」
 青木には、由美の真意がわからず、内心でとまどっていた。一方では押したり引いたりの駆け引きは恋愛にはつきものかもしれないと考えていた。
 また電話すると、家人は、横浜からまだ戻っていないと言った。
 二,三日後、夜中の12時に電話をかけると、姉らしい人が出て、深夜の電話を迷惑がっている様子が分かった。
 
 由美は、何日に電話してくれと自分から言っておいて、青木がその日に電話しても自宅にはいなかった。
 青木は思案した。由美は交際している彼氏がいるのに、自分を受け入れてよいのかどうか迷っていて逃げているのが、実状なのか知れない。彼氏と決定的な関係になっておらず、今でも間に合うのなら、自分は、できれば由美を諦めたくない。しかし、由美にとって、自分と交際を始めるのは難しいことかもしれない。無理なことなのかもしれない。だめならだめで断りの返事をもらった方が、自分の気持ちは楽になる。
 青木は親友の秋山に相談してみた。
「その人の対応は、常識を欠いているような気がするな。手間暇をかけて追いかけるほどの女性じゃないような気がするけど」
 青木には、その言葉が厳しい意見なのか、常識的な意見なのか分からなかった。自分が恋心を持て余していなければ、もっと冷静に判断できるのだろうと思った。
 
 季節は初秋の兆しが見えてきた。青木は由美に電話したいのを我慢して日々を過ごした。
 ある晩、アパートの階下に住む男女が、夜中の2時頃に2人揃って帰ってきた。酒に酔っているらしく、大きな音を立てて、部屋の中で2人でもつれ合っているようだった。
「20才の若い娘に手を出して、何よ」
 男の浮気を女が責めている気配だった。
 やがて、争いは大きくなり、2人は表に出た。
「死んでやるから。もうあたしのことなんか、愛してないんだ」
 女は大きな声で叫び始めた。
「みんなに聞こえるからやめろよ」
 男の押し殺した声が聞こえた。
「そんなことは構わないじゃないの」
 男は耐えきれなくなって、車に乗ってどこかに行ってしまった。女は地面にしゃがみ込んで、声を出して泣き続けた。泣き声が、深夜の闇と静寂を破った。
 青木は窓のカーテンの陰から、うずくまるその女の背中を見た。そこはアパートの建物に囲まれた、照明の当たる中庭の真ん中だった。他のアパートの住民も聞き耳を立てている様子だった。
青木は程度の差こそあれ、自分と同じように色恋で悩む人々がここにもいるのか、と思った。
 
 由美には交際相手がいる。もし由美と自分がこの先に進んだら、何が起こるのか? 彼氏は怒るだろうか? 三角関係に陥るのか? 醜い人間関係で、3人が苦しむのか? 争いが起きたら、最後はどうなるのか? 自分はやはり後から出て行くのだから、悪役になるのか? そんなことを自分は望んでいるのか? 由美の気持ちは、彼氏の気持ちは、どんな風に変わるのか? アパートの男女のような痴話げんかの当事者に自分がなろうというのか?
 
 青木の母親は久しぶりに会った青木から、意中の女性由美に関する話を聞いた。
「どういう人なんだい、その人は? そんな人、諦めて、連絡取るの、やめた方がいいんじゃないかい?」
 青木はせかされる気持ちで、しかたなく由美にまた電話した。由美にそっくりな声の姉が出て、今度も、横浜に行っていると言った。
 青木は自分が恋の悩みの中にいると自覚しながら思った。
 彼氏との関係は、由美の言うように友だち程度だとすれば、すぐに解消できるのか? 解消できないとすれば、由美はふたりの男と同時に交際することができるのか? その場合、交際してもらえることの喜びと、男を両天秤にかける女への疑いの間で自分は悩むことになるだろう。由美はどんな男女交際の倫理観を持っている女性なのか。
 自分は、由美がひと言断ってくれれば、もうそれで観念して諦める。それなのに、由美は返事を引き延ばしているだけで、心を寄せてくる男性にきちんと返事をしようとしない。自主性に乏しい優柔不断の女性なのかも知れない。
叶わない恋だとすれば、自分の方から、このまま連絡を絶ってしまう方法もある。由美が青木にこだわりを感じないで、内心で厄介払いができたと胸をなで下ろすようなら、この片恋はそれで終わる。
 しかし、青木はせっかく思い詰めた自分の恋を大切にしたかった。もし諦めざるを得ないとしたら、それは由美から拒絶の意思表示が直接に伝えられたあとにしたかった。
 
 青木はまた電話して、初めて由美の父親らしい人と口をきき、恐縮したが、娘は出かけていないという事務的な返事を聞かされた。
 このところ連続して電話したことになるが、由美から音沙汰はなかった。
 何度目かの電話で、青木はしびれを切らして、姉らしい人に青木あてに電話するように由美に伝えて欲しいと頼んだ。
 それでも、由美から電話は来なかった。
 
 青木は、もはや電話では2人の間の会話は成立しないと思い始めた。いくら電話をしても埒が開かないとわかり、考えられる方法でひとつの賭けに出た。
 また手紙を書いて、有名なテーマパークに一緒に行って欲しいと頼んだ。最寄りの駅の待ち合わせの日時を、一方的に指定した。それは、由美が来なければ、青木がその場所で待ちぼうけを食う羽目になることがわかる文脈だった。
 これで、由美はイエスかノーかの返答を迫られ、今までの2人の曖昧な関係に一応の決着がつくと考えた。
 これまでに好きになった女性に訳があって振られた経験は、何度かあった。失恋の修羅場をくぐっているから、今また由美に振られても、どうということはない。
 
 月日は流れて、青木は独身のまま、年号は昭和から平成に変わった。
 相談所の女性の紹介は、個人的な恋愛のやり取りとは別に事務的に進められる。経歴書の紹介で、青木は都心に出かけた。会っても無駄かと思いながら、会ってみないとどうなるか分からないと思い直した。
 相手の美香嬢は26才で、生命保険会社に勤めていた。父親も母親も高卒だった。初対面の人と知り合う見合いとはこんなものかと改めて感じた。青木は興味のない相手に口裏を合わせることに、空しさを覚えた。


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