「面白い文章」とは「あえて書いた/書かなかった」その理由が語れるかどうか
自分も文章を書くから、感覚的に思っていたことだけれど、「途中で離脱」してしまう文章の多くは、情報が多すぎる。
情報が多いのは別に悪いことではないんだけれど、「多く感じてしまう」文章ってあるように思うのだ。
そこに「編集視点」がない、つまり「何が一番言いたいことなのか」がわからない、仕入れた情報をかたっぱしから語ってしまっているものなどは、
これいつまで読めばいいの・・・?
になる。文章の長さではないのよね。情報を右から左に流していくだけの文章は、読み手の心には刺さらない。
書きたいことがあるなら、あえて、書かない勇気を持つ。
1から10を説明することが読者にもたらすのは、分かりやすさではなく、わかりにくさ。時間の奪い合い。結局何が言いたいの?というストレス。
それは、小室さんの文書からも学べると思うのだ。懇切丁寧に、あれだけ説明して残ったのは・・・?
言いたいことがある時ほど、説明しすぎる、情報が多くなる。こうなるともう書いている本人には、原稿の向こうにいる、読者の顔が見えなくなってしまう。
あの文書で想定されていた読者とは、「全てを論理立てて説明しておかないと誤解してしまう、わかってくれない」ような存在だった気がする。
そして、それは読者に対する「非礼」だし、そのような気配を読者は簡単に見破ってしまう。
いくつかの書籍企画をお手伝いするなか、やはり何を書き、何を書かないのか、その選択の勇気を持つことはとっても大事だと感じている。その判断が委ねられているという責任も。
けれど、「何を書き」「何を書かないか」その基準は、どこにあるのだろう?
書かない勇気を持つ、というのはとても大事なことだと思うけれど、私にはそれを、なんとなく感覚でやってしまうところがある。消しすぎたり、あるいは長すぎたり。
どうすれば確信を持ってそれを実践できるのか、何を根拠にして、どう取捨選択していったらいいのか。
今日、このほんの5章に当たる「桃太郎」のワークに取り組んでみたのだが、この謎が解けたような気分になった。
ワークは、誰もが知っている昔話「桃太郎」を10枚の絵で説明するというもの(この本、本当にバイブルになりそう)。
先入観なしにやってみたの結果がこれ。
何を語るのかが左の10枚のカード。その他20枚を語らないことにした。
自分の選択したカードを見て気づいたことは、
大筋、物語の流れや筋、大まかな構成をはずしはしていない。ストンと落ちるように、王道にまとめてあるという点だった。
しかし!
確かに語れてはいる、いるんだけれど、古賀先生が教えてくれているのはそういう小手先のことではもちろんない。
この私が作った「桃太郎」が、「私が語る必要のある桃太郎になっているのかどうか」、ということだった。
そして、それこそが「何を書き」「何を書かないか」の判断・選択に、一番影響を与えるポイントなのだということだった!
(ここは自分の忘備録として記しているので、詳しくは絶対この本を購入して、じっくり何度も読んでみて欲しい!!のだが)つまり、古賀先生によれば
・構造の強度(物語の曲面)
・桃太郎らしさ(ここでしか得られない情報)
・課題の鏡面性(自分ごとにしてもらう)
という3要素が揃っていれば、自ずと構成そのものにオリジナリティと面白さという付加価値がついてくる、と私は理解した。
私にとっては、特に「自分ごとにしてもらう」(=課題の鏡面性)についての思考が今一つ足りていない、弱いな、と感じた。
「書かない勇気を持つ」なんて、えっらそうに言ったけれど、結局は、
なぜそれを選んだのか、その理由を自分の言葉で語れるかどうか。
自分の言葉でそれが説明できなければ、どんな文章も面白くなり得ないのですね。
1章ずつ、放課後自主勉するみたいに読んでいます。改めて、この本はとんでもない本だなと。文字通り、取材、執筆について考え抜き、導かれた解が惜しげもなく提示されている。自分が、手探りで、感覚でやってきたことを、強固にしていってくれる実感がある。
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