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「誰にも読まれない」文章が「誰かに読まれる」ためには

ほとんどの文章は、誰に読まれるでもなく、流れていきます。

私が編集者として仕事をするときは、ただそのことだけを頼りに編集しています。


誰も読まない。


誰のところにも届かない。


このままでは。


というところから、編集あるいは執筆をスタートさせる。「誰も読まないのよ、こんなもの」、と教えてくれたのは、最初に就職した出版社の社長でしたが(怖かった・・・)、

誰も読まないというのは、誰もが読む可能性もひめているということで、そのためにできる一切のことを怠らない、という意味であると知ったのはだいぶ大人になってからです。

誰にも読まれない、から、どうするか。
それが執筆であり、編集だと思っています。

書き手は、饒舌です。ちょっとうるさいくらい。だからこそ、書き手になりうる。だけど、よっぽどの条件が重ならない限り、その文章はやっぱり誰にも読まれない。ベストセラーならまだしも、誰かの心をひっかき、爪痕残すような文章たりえるには、何ステップか必要そうです。


そういう時、編集者は、それを少し離れたところで、「誰が読むのか?」「どこが過剰なのか」「どこが足りないのか」を点検するひとです。

古賀史健さんは、編集者がついている書き手は、どんな状況であれプロと名乗っていい、と書いていましたが、「むむ、なるほど」となりました。

売り上げや販売部数なんかじゃなくて、編集者。確かに、編集者がいる書き手は、独りよがりにならずに済みます。点検を怠らずに出した文章は、より「誰かに読まれる」可能性を増す、とすれば書き手としてプロ。納得です。

私も編集者でありながら編集者についてもらって文章を書いたことがあるってことは、ちゃんとプロを名乗ったうえドヤ顔までしてもいいかもしれないと思いました。実績が弱小すぎて自信なかったんだけど・・・(笑)

(衝撃だった中国暮らしの体験、日中のギャップについてエッセイにまとめました。編集者さんがついてくれて書き上げた最初の作品!)


このところ、原稿を何本か読ませていただく機会に恵まれました。繰り返すようですが、私がやったことは、「誰も読まれない」ところから原稿を読み直したこと。

そもそも企画が読者にとっての利益(貢献)になっているかの点検はもちろんですが、文章の構造や言いたいことの伝わりやすさなど、

「読まれない」というところから見ていくと、不思議なんですけれど、必要な箇所、不必要な箇所がとてもクリアに見えます。

本当は、言いたいことなど一言で終わるはずなんです。

大人は、言葉を持っているぶん、一番言いたいその一言の周りを「説得力」や「論理」で固めたりする。

一言で、言わないのはなぜか?

その一言が隠れてしまっているところに、誰にも読まれない理由があるような気が、私は、しています。


そして、覆すようでもありますが、最終的には、作り手は「読者を信じる」ことなんですよね。

読者を侮ってはいけない、というのは本当に思います。

読者には、想像力があり、発信力があります。必ずしも、作り手の思う通りには受け取ってくれない可能性もある・・・、と思うかもしれない。

でも、その「受け取ってくれない可能性」に向けて文章を綴れば綴るほど、言い訳がましくなること必須です。自信がなさそうに思われたり、攻撃的にさえ感じられてしまうこともある。

読者への疑念は、文章に乗り移ります。ガチでw

自分が作り手として創造性を発揮するなら、それと同様に、読者の創造性・可能性を信じる。自分の言いたいことが伝わらないかもしれない、と思ううちは、執筆をしない方がいいと思います。

ただ手紙を書くように、文章で読者に<利益>を届ける。読者がいるから書ける、というありがたみは、いつだって忘れてはいけない。

と思いながら今日も取り組んでみましたが、曇天のせいか、あまり進まなかったのが悔やまれます。華金!



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