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「鬼滅の刃」半天狗が住う自分のこころ。

鬼滅の刃、アニメ化決定のニュース!待ってました〜!

またしばらく楽しめるのかと思うと、嬉しいです。ストーリーは全部知っているのに、みたい。

キンコン西野さんも「ヒット作とは流行っているものの確認作業」とおっしゃっているけれど、本当にそうだと思います。

わたしの場合は、媒体が変わるとどう表現方法が変わるのだろう?というところにも興味・関心があるので

あのお話がどのような表現で蘇るのか、ufotableさんの描く遊郭、めっっっっちゃ、楽しみです!


鬼が住う人のこころ。

わたしは、「鬼滅の刃」の中に出てくる数々の鬼の中でも、上弦の肆・半天狗(はんてんぐ)という鬼が好きです。

いや、好きじゃないな、好きというより、あの鬼は、わたしです、と思っています。


(以下、「鬼滅」未読の方はネタバレ注意)


半天狗は、常に何かに怯えています。小さくなって、いつもどこかに身を隠し、泣き喚き、逃げまくります。

でも、斬り付けられようとすると一気に反逆するのですよね。どうやって?

被害者意識を持ち出して、です。

この設定見た時、吾峠さん地上の生き物じゃないな!と、唸りました。

そして、漫画でこの鬼に出会った時、ああこれわたし、と強烈に思いました。

鬼滅は、よくダークファンタジーとか言われるけれど、

その魅力は、炭次郎や善逸のような正統派キャラにではなくて、わたしは醜い鬼たちの描かれ方に在ると、わたしは感じています。その緻密な設定に、非常に、強い共感を覚えることが在るからです。

半天狗で言えば、この鬼は自分を4つに分裂させることで、最も戦闘力を高めることができます。

4つ、すなわち「喜怒哀楽」に分裂することで強くなり、小さくか弱そうに見える<本体>を守っている。

(↑ご参考まで)


被害者意識を炸裂させることで、やっと喜怒哀楽が生まれる。わたしは、ここを読んだときも、鬼と人間(感情)をつなぐ強いメッセージに、黙り込みました。

半天狗は、感情すら被害者意識をベースに味わうしかないのです。言い換えると、被害者意識があればこそ、感情を生み出すことができる。

つまり、自分は被害者=常に弱い存在、でいなくてはいけない。

それによって、自分の強さを証明できるからです。

「お前のせいだ!」と攻撃することで、自分の強さを歪んだ方向に表出している鬼、いやもう人間にわたしには見える。ああ、胸が痛い・・・。


自分を必死で守っていた。

常々、今の自分がこうしてあることを「誰かのおかげだ」とは思っても、「誰かのせいだ」なんて、わたしは考えたりしない。

と、常々思っていました。

でも、ふとした時。出てくるんです、この鬼が。

思うように進まなかった時。雰囲気を読み取りすぎてしまった時。いいね!の数を数えてしまっている時。書いたものを非難された時。言い値で仕事をOKしてしまった時。子どもから悪態つかれた時。夫から冷たくされた時。

思うような結果に至らなかったことを、わたしではない、誰かのせいにして、一人で落ち込み、自分を責め続け、怒り散らしていることがある。

そして、その感情を煮詰めすぎてしまい、なんでこうしてくれなかったのか!なぜこういってくれなかったのか!どうして!なんで!わたしばっか!

って真っ黒こげになって自分を炭化させてしまっていることが

わたしにはある!! どうせなら炭治郎になりたいのに・・・。

半天狗という鬼のふるまいを見た時、なんて醜いんだろうと思った。でも同時に、ああこういう醜態をわたしもさらしている、と思った。


そろそろ、全責任を自分に

怒ったり、悲しんだり、憎しみを抱いたりするのは、自分の中にきっと「誰かのせい」という思いが消えないからなんだろうと思います。

そして、この思いが消えないのは、なぜなんだろうと考えます。きっと、小さい時、何か直接的な要因があったのかもしれないし、生まれ持った性質なのかもしれない。

でも、今はその<原因>を突きとめるより、

半天狗という鬼をわたしの中に住まわせることで、<わたしが得てきたメリットもあった>と考える方が、なんだか気持ちが楽になる気がしました。

原因を探していて、そう思ったんです。

きっと、わたし以外の全てに猛烈に怯えながら、時に被害者意識を持ち出すことで、わたしも半天狗と同じように強くなれた気がしたんですよね。

被害者と加害者。どちらも、主観にすぎないものでしょう。その人の中に真実が在る限り、自分にとっての正義は、誰かにとっての敵。

だけど、「誰かのせい」にすることで、自分の弱さを誰よりも守ろうとし、圧倒的な臆病さで何事にも挑戦せず、傷つかないように行動してきた。

そんな、今までの自分を完全に否定することは、今のわたしにはできません。醜くても、

これは、厳然たる自分。

半天狗のおかげで、今のわたしが在る。

そう思たら、ふと、わたしの中の半天狗の表情がゆるんだ気がしました。

半天狗のいる自分を、どう愛するか。

わたしのなかにいる限り、それを生み出したのもわたしです。なぜなら、それが必要だったから、そこにいるのです。

結局、敵は自分の中にいる。

本当は、誰のせいにもできない。その誰かは、きっと、どこにもいないんだと思いますね。


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