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なぜ作文教室をやろうと思ったのか

私が作文教室を始めたのは、娘が仲良くなったお友達のママ友から

「うちの息子、作文が苦手で…。ちょっと見てやってくれないかな」

という相談を受けたことが直接のきっかけです。男の子は、小学校4年生でした。

当時はせっせとライターを頑張っていましたが、せっかく地元に戻ったのに(中国にまた戻る予定で)、書いても書いても地域に関わることがほとんどない。納品するのは別の大きな都市で発行している雑誌だったり、ウェブだったり、

なんかこう、地元で暮らしている実感、みたいなのが欲しかったんだと思います。

そうだ、地域の子どもたちに向けて、作文教室をやろう。

ふと思い立って京都行くくらいの感じで(ちがうか)、近所の子供達を集めてフワッと始めたのでした。娘を思いっきりダシにし、巻き込みつつ。

でも、私がやるなら、作文が上手くなることは最終目的じゃない、とその時から直感的に思っていました。

当時、こちらの知育玩具のプロモーションにもライターとして少し関わらせてもらっていたこともあり

(発想と発見の源泉!とても良くできたおもちゃだと思う/中の人ではありません)

原稿用紙をきれいに埋めることができることよりも、「書きたい」と思える気持ちを大事にしたかったし、書くことに苦手意識を持つまえに、遊びを通してでも「書ける」ってことを実感してもらいたかった。

いわば、私がこだわりたかったのは、「書く前」のこと、言い換えたら、「自分(子ども一人一人)の世界」にリーチすることだったと思います。うまいとか、下手とか、そんなことは本当に、どっちでもよかったんです。


私自身、書くことで助けられてきたことがたくさんありました。書けた方が得する場面もたくさんあった。

でも助けられたと言ってもそれは、作文が誉められたとか、読書感想文が書けたとか、そんなことで得られた安息ではなかったように思うのです。

実際、子供の頃多少は作文が誉められたことはあったと思うけれど、そんなことですごく「嬉しい!感激!」「自信ついた!」なんて気持ちになったこと、一度もありません。

学校で作文が誉められたからって、自分が満足したことなんか、一度もない。


それは多分、子供の頃の私が、ずっと、嘘っぱちの作文を書いていたからだと思います。


先生は、こういうことを生徒に書いてもらいたがっている。
親は、みんなの前で子供が表彰されると喜ぶ。
作文が上手だったら、とりあえず大人に褒められる。


そういうことが、どっかで、ありありと見えていたような気がします。

もちろん、子供の私がそこまで自覚的だったわけでもないと思いますが、

いろいろあって、大人が喜ぶポイントくらいなら、センサーがナノレベルで反応するくらいには、アダルトなチルドレンなのでした。


子どものうちに嘘をおぼえると、あとから本当にしんどいです。そのうち、自分がどこにいるのか、何が本当なのか、よくわからなくなる。

だから、私が子どもたちに伝えようと思ったのは、自分に正直に、ありのままでいいから、言葉をつむぐこと。そして、それをありのまま、受け止めてやれる場をつくること。

自分の言葉で、自分の土台を築くこと。

私の子ども時代の救済のためでもありました。


何年か作文教室やってみて思うのは、子どもたちは、別にアダルトなチルドレンでなくても、やっぱりどこかで大人の目(評価)をうかがって、「書けない」と叫んでいるのを、私は私なりに感じ取っています。

実際、小四くらいで文章力どうのこうのなんて、心配する必要、まるでないと思います。心配しなくていい。

もっとうまくなってほしい、という親や先生の願望は、子ども自身の土台づくりには、ちょと邪魔です。

たんに、書きたいと思ってないだけだったりするからです。どう書いたらいいかわからないだけで、その「どう」の部分で、子どもは、大人たちの評価にも応えようとしてくれるからです。

そういう子どもたちのために、私にできることは何か。


そんなわけで、私は作文教室でいったい何をやってきたのか、何をやっていくのかを、今改めて考えています。

こうやって書いてみると、当時のこととか、荒削りな気持ちなどを思い出しました。そうか、こんなこと考えてたのか。いまやっと言葉になったこともあるような気がする。

書くって、やっぱりすごい。

子どもたちに、言葉の力を知ってほしいと思う。

それは、自分の力を知ることと、同じだと思うから。


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