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庭木の剪定、竹藪の管理についての学び。

母親が高齢になったために、必然的にやらねばという意識と、ある事件がきっかけで、ハンディノコを、見繕い、紫陽花の剪定からやり始めたことです。

事件の内容は、割愛させていただきます。今では、その時に向けられた矛先が、感謝の気持ちに変わってます。そのきっかけがなかったら、ハンディノコを手に取ることもありませんでしたし、実家の行き来すらできませんでした。

実家は、片田舎でして、貧乏ながらも、昔からある本家という立場。

庭が広いです。

庭木も、親父の好みとかで、桜、石楠花、松、祖母からは、カエデ、母のは、紫木蓮。

その他、紫陽花、ツツジ、さつき、南天の木。

他にもいろいろあるようですが・・。

ひとつ、ひとつ、母から頼まれては、剪定するうちに、剪定教科書本を買って、その都度、辞書引き読み、帰りの電車では、復習とともに、剪定のコラムを読んで、勉強。

竹藪は、昨年の秋、竹引きのノコが必要だとか言われて、見繕い、そのついでに、竹の子読本を買い、その季節ごとの辞書引き読みと、動画が参考になりました。

竹の子は、今まで自分で掘ったことなかったのが、掘らざるを得なくなって、ツルハシで、竹の子ほりをするようになりました。段々、全体的な竹林管理の流れを勉強しつつ、母のその都度の言葉を、日記に書き留めておくようにしました。

その中で、自然と向き合うこと、植物とは?という、まだ、未満ですが、プロの庭師を目指しているわけでもなく、自分が庭木の管理、竹藪の管理はできることから、コツコツと、女性でも管理可能なものに仕立てていくことが、今の課題です。

少しずつ、変わりましたね。街の生活の疲れを、田舎に時折戻っては、草取り、剪定、植物をいじることで。自然の音を聞いて癒しのようでもあり、時には、汗水ダラダラと疲れすぎてしまうこともあります。その後には、「空」になります。

そんな中で、街に戻って、一人の時間を過ごすことで、自分自身を客観視というか、行動認知みたいな、反省文を綴っております。そこで、気づいたところ、この時期には、こんな仕事をとか、やりすぎた、心と体が悲鳴をあげているとか。自分は、団体行動が苦手で、一人で、コツコツと黙って、やることが向いてます。お金には繋がりませんが、精神衛生上いいようです。

ウルフの、「自分ひとりの部屋」がいかに必要であるか、しみじみわかるようになりました。

自然と向き合う、竹の声、植物の声、昆虫観察など、帰りには、川の流れを見て、人生を、考えたり、慰められたり、鳥の声、カエルの合唱・・。人間は、自然には、逆らえない。自然に、「生老病死」を迎えるのが人間であり、生き物であること、老いることとはと、母の姿、衰えを見て、考えるようになりました。

怒りの矛先が向けられて、それは、天からの声だったのかもしれません。

学びは、まだ続きます。きっと、答えはないと思います。

#私の学び直し

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