メディアという葬送

 むかしむかし、来るべき季節に雨と日の光を願い、穀物の実りを期待し、ひとびとを守る者が必要とされた。それはわたしたちがここぞと言う時に神社仏閣で購入する「お守り」に相当する。そんな呪術的共感関係の場において、「自然」と「超自然」の媒介人として王=神がたてまつられた。 そして、ひとびとは、ある者を殺したいと思えば、その者の像を象ってそれを破壊した。神や像は人間の想いの代理物に過ぎないからだ。

 王の生命には万人の幸福がかかっているのである。したがって、王=神が身体的に弱れば世界は衰退する。老齢や病で死なれる代わりに、次期後継者と言われる者が先の神=王を殺してしまう方が合理的であった。人民は「真空」(先代と次代の間)を怖れていたからだ。

 しかし、王や神とて人間。死にたくなかった。次第に、偽の代理、「非同一」だが王の「同一」として「不等価」な生贄、子どもや動物が神や王の「等価」として代理に捧げられるようになった。これを「葬送」と呼ぶ。葬送には生贄が付き物だ。(フレイザー「金枝篇」)

  秦の始皇帝も自身の「死」後の「真空」、「死」後の出来事(争い)、つまり「中心の不在」を怖れていた。したがって死後の「中心」のない「中心」への防御策として、長子を次期後継者とする書を宦官である趙高に生前に与えていた。そして我々が「史記」において知る通り、趙高は始皇帝が死した時、その死を秘し続けた。というのも、始皇帝の死を知れば、長子陣営へと事態は逆転するからだ。この「真空」が満たされた時、秦の始皇帝は初めて死してよいことになる。彼が死ぬのは「誰かが始皇帝にとってかわる関係の秩序を形成しおわるとき」なのだ。(柄谷行人 歴史について-武田泰淳)

 ロベール・エルツという人類学者は死を「瞬間的なもの」と見ていない。生きてもいないけれども死んでもいない「あいだの期間」「メディア=ミディアム(中間)」=「葬送」という真空は言葉で溢れかえる。身体的ひとの「死」を本当に「死」たらしめるのは「死」の瞬間ではなく、その前後の真空を満たす「言葉」なのである。現在、テレビ、ラジオ、雑誌、ネット「メディア」で松本人志さんに対し「メディア」が行っているのは彼の「葬送」、つまり、彼を死んでもいないが生きてもいない、あいだの期間に置く作業だ。(内田樹 死と身体)

 松本人志=〇△Xと「一旦、それが言語的な共同体で確立するやいなや、話し手はそれを変える力を持たない」(ソシュール)世界は既に松本人志と言う人物がどんな人物でなんたるか、既に「意味で充たされている」からだ。柄谷行人は英語の”smart“(賢明な)という語が日本ではなぜか「細い」「粋な」という意味で使われていることを指摘する。「スマートな女性」「スマートなセンス」。

「間違ってるんや!?」ということが問題なのではない。マルクス主義がマルクスから遠く隔たっていることに同じだ。意味するものとされるもの。交換するものとされるもの。この2者「間」の不平等を平等としている体系性の指摘。これがマルクスだ。交換不等性における不平等を平等とするのが「交換」=「経済」であり、非同一性が同一とされている資本主義社会の構造を「葬送」の構造に同じフェティシズム体系であると彼は指摘しているのだ。つまり簡単にいうとマルクスとマルクス主義は正反対の主張をしている。

マルクスは 交換体系が   
平等 → 不平等 だと指摘しており

マルクス主義は     
不平等 → 平等 へと「革命を!」と燃えていた。

 しかしながら、語=意味=世界というのは「一旦それが定着すれば、それがなかったときとはちがった言語の体系が形成されており、他の語の意味も変形されている」(柄谷行人ibid.)そして、我々は「葬送」という「あいだ」の「時間」であり「場」を取り仕切った趙高の陰謀によって帝位についた胡亥が「馬鹿」にされた逸話を知っている。趙高は「これは馬です」と言って鹿を献上して胡亥を「馬鹿」にし、「これは鹿です」と趙高に同意しなかった家来は粛清されたという。

 このように、「メディア」という非同一で不等価な情報が等価として秘匿されている中心のない交換の体系において「馬鹿」というが生まれた。自然と超自然の媒介としての神の非同一な生贄が同一として捧げられた「メディア」=「葬送」は世論との媒介=「経済」であることをマルクスは発見したのだ。

  私事だが、わが父が昨年8月4日に亡くなり「葬送」も行われた。私が「葬儀」に出席しなかったのは父を本当の意味で死に至らしめる「葬送」はその前後の「あいだ」で行われており、「誰かが」父に「とってかわる関係の秩序を形成しおわるとき」父は死なされるからだ。

 父は名を「光永」という。彼は「永遠の光」として私の心に生きている。そして、「贈与」とは「人がそうではなくて、他人が持っているものを通じて人がそうであるものを実現するひとつのやり方である」ラカン研究家ディビッド・モニエは「愛の現実界-ラカンの三つのモデル」で言っている。(訳:番場寛)非同一を同一として最も多く奪われた者は少なくとも愛(そうではないもの)を提供できる。「愛とは持っていないものを与える」こととはラカンの説である。そして、最も多くを得た者、つまり「誰が語っているのか」我々が着目しなければならない者の自己実現が「他人のもっているもの」を通して叶ったならば、その実現を願うことも愛なのかもしれない。不等価を等価として交換される「生贄」は「葬送」に憑き物であり、これが「経済」=「資本」だからだ。父の冥福を心よりここに願う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?