読書メモ 「林達夫著作者 1 芸術へのチチェローネ」 ーその3
「林達夫著作者 1 芸術へのチチェローネ」
林 達夫
平凡社 1971年
30年程前に、思い切り背伸びをして買った本を、いま再び開いている。若かった私には案の定、林達夫の博覧強記、そしてエスプリについていける筈もなく…。こうして読んでいても未だ歯が立たないのが悲しいが、下座に控え、いや、それも烏滸がましいので立見で、観客の一員に紛れ込んでみようと思う。
中盤2編に続き、後半2編の感想を述べる。最終編の『精神史』だが、これだけ他とは様相が異なるので、別稿で感想を語りたい。
ルネサンスの母胎
ルネサンス。この昂揚した新しき精神を生み出した母胎は何か。腐敗せる権力への失望か、発明と発見による世界拡張への期待か。これまでの稿で述べられた通り、それらも間違いなくその胎盤を構成する重要な要素であろう。
しかし、ここで忘れてはならない事実がある。イタリア都市を先頭とする「市民階級の自覚と解放運動と権力意志との屈折多き発端的な発現形態」であったルネサンスの寄って立つ現実的基盤、直截に言うと「金の登場」がまさしく胎盤の形成に欠かせないものだったという事実だ。
「表には市の守護聖者バプテスマのヨハネの像を描き、裏には市の紋章、百合の花を浮き出させている金フロリン」をもって急速に繁栄の絶頂に登り詰めていったフィレンツェ、そのフィレンツェは、一方で羅紗布の製造と販売においても中心地として盛況を誇っていた。「花の都」の原動力が「金フロリンと羊毛」だったといっても言いすぎではなかろう、と林達夫は指摘する。
しかし「政権とそこから出てくる一切の利得を掌握する際、そのような場合にどこにでも起こることがフィレンツェでも起こった」つまり「脂ぎった」富裕市民による権力の寡占が、下層民の反乱を招いたのだ。有名なチオンピの反乱がそれである。
ここでの林達夫の見立てが面白い。アシジの聖フランチェスコやサヴォナローラ、ピコ・デラ・ミランドラらの「簡素なミスティシズム」は「世俗的精神」とともにルネサンスを織り成す最も大事な二本の太糸である、というものだ。
「封建的教権とスコラ的僧侶主義の埒外に花咲いた、この個人的信仰、自由な『心の宗教』、みずみずしいミスティシズムは動脈硬化せるこれも『脂ぎった』制度的宗教の悪血を抜いて、民衆のこころに『宗教熱』を保ち、蘇らせ、また昂めさえするのに少なからぬ貢献をした」林達夫がこう表現するミスティシズムであるが、たしかにエラスムスやトマス・モア(彼はピコ・デラ・ミランドラの伝記を訳している)を読むと、カトリック陣営においてさえ、自らの腐敗に対し自浄作用が働いていたことがわかる(結果的にエラスムスに影響されてルターは宗教改革を始めるのだが)。
林達夫は言う。「ルネサンスとは、他の多くのことも意味するが、少なくともその深所においては、常に何らかの形において、この世俗的精神とこのミスティシズムとの交流か相剋か合体か対立かの壮大なドラマであるといえないだろうか」「ルネサンスの名を以て呼ばれる時代は、人類史における最も偉大な過渡期であるから、過渡期の常として、あらゆる問題は例外なく『一つの世界』の問題としてではなく、『二つの世界』の問題としてすがたを現している。従ってそれを無視してヒューマニズム(人文主義)だけでルネサンスを世俗化一本に片づける速断家的解釈には、私はどうしても組することができないのである」
仇花で終わったとされるチオンピの反乱も、この流れの中で考えるなら、ルネサンスを一方でかたち作った堂々たる民衆的底流であったということだろう。そして、実は反乱のきっかけを作ったのが、自家の勢力拡大を狙う新興商人の、あのメディチ家だったわけだが「フィレンツェの歴史は、そのままメディチ家の歴史であり、そしてそれはそのまま、またルネサンスの歴史、少なくともその縮刷豪華版でもある。なぜならルネサンスの最も光彩陸離たる精華は、挙げてメディチ家のコシモとそれにつづくロレンツォの宮廷に花咲いたからである」と林達夫は結んでいる。
ルネサンスの偉大と頽廃
血筋による継承ではなしに「暴力や奇襲や、たまにはその政治的・軍事的功績によってコムーネComune(都市自治体)や一国の首長の座についた専制君主」いわば「成り上がりの新人」として君臨する僭主による政治。「僭主ほど自らが上に立っていることを明らかに見えるようにし、名声をその一身に集めるために、それにふさわしい『取巻き』を周囲に持っていなければならぬ人種はない」と林達夫は言う。イタリア僭主政治の最も特異なる表現形態の一つが「学芸保護」だったというが、やはりそこで思い起こされるのは、メディチ家とその周辺の芸術家であろう。
「この権力と精神との同盟は、芸術がその生い立ちの民衆的地盤から離れて、貴族化し孤高化することを意味する。大ざっぱにいって、この過程は15世紀後半から16世紀前半にかけて緩慢に行われているが、それを典型的に辿ってみられるのが、メディチ家独裁前後のフィレンツェなのである」
ボッティチェリやミケランジェロのパトロンとして有名なロレンツォ・デ・メディチ。そのロレンツォでさえ、フィレンツェのシンボルであるサンタ・マリア・デル・フィオーレのファサードを完成させることはなかったという皮肉な事実は、何を意味するか。
メディチ家専制以前には、設計者ブルネレスキの模型が工事期間中13年間も展示され、あらゆる人が意見を述べることができるようになっていたという。ドーム造営に関し、実に530回も開催された委員会は、メディチ家がフィレンツェの主権者になる頃には事情が一変する。ロレンツォは、ボッティチェリ、ペルジーノ、ギルランダイヨ、ヴェロッキョ、フィリッピーノ・リッピ…という錚々たるメンバーによるファサードの設計案を全て却下し、フィレンツェ本寺は、ファサードのないまま19世紀の終わりを迎える。公共的建造物に対する情熱という偉大な共和的精神は、最早そこにはなく「メディチ家は、1434年から1471年の間に、663,755フロリンという莫大な金額を芸術に関する事物だけにも支出しているが、この芸術保護は全く自己本位のもので、一家の勢威の誇示と個人的名誉心に出ずる豪華な宮廷ぶり以外の何物でもない」さらに「メディチ家のもとでは、家具屋や額縁屋は大繁盛だが、建築家や画家は雲がくれだ」という当時の年代記者の言葉を引き、僭主により私物化され、威厳の表現へと成り下がっていく芸術の様相が語られる。
職人から芸術家へ。さらに貴族へ。中世まではキリストの栄光を描き記す一職人に過ぎなかった画家だが、皇帝カール5世に落とした絵筆を拾わせたティツィアーノの有名なエピソードに見られるように、いまや「Virtù(ヴィルトゥ)力量」を持った「芸術家」となった画家は、君主と対等な「貴族」にまでなろうとしている。
「民衆的環境から断ち切られて、貧血症にかかり、萎縮し、洗練された特権的教養社会の冷ややかさ、わざとらしさ、衒学癖」をまとった「芸術」は、16世紀に至ってローマにおいてその本領を発揮する精神的風土を見出した、と林達夫は言う(美術史上のマニエリスムのことか。ここでは触れられていないが、ミケランジェロはローマ時代に《ピエタ》や《システィーナ礼拝堂天井画》《最後の審判》といった傑作を残している。ミケランジェロに天井画を依頼したローマ教皇ユリウス2世は、メディチ家の人間ではなかったが)。ロレンツォ死後、芸術に否定的だった僧侶サヴォナローラがフィレンツェを席巻し、フィレンツェから追放されたメディチ家はローマに拠点を移すが、それに伴い芸術家たちもローマに渡ってきた。
ユリウス2世の後、ローマ教皇となったレオ10世は、ロレンツォの次男であったが、彼はその豪奢な宮廷生活を賄うため、サン・ピエトロ寺院造営の名目で免罪符を乱発し、ルターによる宗教改革のきっかけを作ったのだった。
アートとプロパガンダの切っても切れない関係、それはいつ頃始まったのか。プロパガンダという概念そのものが近代個人主義を前提とするものならば、その蜜月の始まりは、神の栄光が共通で自明の理とされた中世ではなく、個人という自意識が発見されたルネサンスにあったと言えるかもしれない。本稿を読むと、そんなことも思い浮かんでくる。