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発達障害でHSPで不器用な私がシングルマザーとして生きている今とこれから。


いつも何かを探している

45歳になった私が小さな頃から変われないこと。
これだ!という何かに出会えない。心がいつも彷徨っている。シングルマザー、無職、住宅ローンがあと34年。こんな状況でも、不安さえきちんと感じられていないのではないか?本当に不安を感じていたら、もっとがむしゃらになって生きることができるのではないか?
中途半端で終わることが多い。特に仕事に関しては本当にやる気が続かない。新しいことや役職を与えられそうになると、「できなかったらどうしよう」と、逃げることが真っ先に浮かんでしまう。

小さな頃から、よく物を失くし、忘れ物が多くて、うっかりミスが多くて、自信なんてどこにも持てなかった。

困ったことに、私はそんな自分の内面とは裏腹に「しっかりした子」
「できる子」みたいに思われることが多かった。
それはきっと、私が4月生まれで体が大きくて、足が速かったからという理由だけだと思う。

小学生になると、勉強でも得意な教科と苦手な教科がはっきりと分かれた。

特に算数は苦手だった。だけど、国語の授業になると、積極的に挙手をして発言をする。音楽も、幼稚園からピアノを習っていて、とても自分に合っていて大好きになったので、小学校での音楽の授業も楽しかった。中学校では、英語の成績がいつも学年上位だったけど、数学や理科はいつも平均的な位置から上がることができなかった。

家では、「いい子」「役に立つ子」でいようと生まれつき考えていたのか?というくらい、その思いだけはブレたことが無かった。
だけど、うっかりしたり、人の話が上の空だったり、整理整頓ができずに机の上はごちゃごちゃで使ったものを元の場所に戻すということが全然できなかったから、特に几帳面な父親には、「お前はだらしない」「お前は何をやっても駄目だな」
「勉強なんかできても意味がない」
としょっちゅう言われていた。

体が大きい割には実は引っ込み思案で人見知りが激しく、そして何故か小さな頃から「死」とか「病気」というものに異常なまでに恐怖を感じていた。

母曰く、散歩中や買い物中によく顔が真っ青になって座り込んでいたと。

記憶にある限りでは、自分はよく吐く子どもだった。
自家中毒という病気によくかかり、入院をしたりもしていた。中高生時代には、過呼吸になって、電車で倒れたり、不安なことがあると息が苦しくなって体が硬直してこのまま死んでしまうのではないか?という苦しさを何度も経験した。
それでも、中学校では陸上部で3年間苦しい時も必死で頑張った。

自分が周りからどう見られているか?どう見られたら正解なのか?ということを第一優先にして生きてきたと思う。

本当の私は、何かあるとすぐ慌ててしまい、マイナス思考に陥り、自分なら大丈夫なんて思えたことはなく、自分に何ができるのか?自分には何が向いているのか?いつも彷徨って探している。

とてもとても生きにくい。

頭の中の回路が繋がっていないのかな。どうして、生きることがこんなに下手なのかな。いくつになってもこんな調子で、なんてカッコ悪いんだろうか。

就活も、本当にうまく行かない。

一体何十社落ちただろう。
「あなたは社会不適合者ですよ」「あなたに何ができるっていうんですか?」
と社会から見透かされているような気がする。

こどもたちは私の背を見て育つなら、ぜひ反面教師になったら良いなと思う。

私は、人付き合いの面でもとても下手だと思っている。でも、幼稚園や小学校のママ友からは、きっと明るくて元気でやる気満々のママだと思われているだろう。

私は演じることができるからだ。良く笑い、会話を合わせ、自虐ネタから子どもの面白失敗談など、人が笑ってくれる話を何時間でもしていいられる。

その後、一人になると決まって疲れて顔がやつれ、「なんであんな話をしてしまったんだろう」
「知られたくなかったことまでなんで話してしまったんだろう」と自己嫌悪に陥ったり。。。
人から強要されたわけではなく、自らその疲れる沼に飛び込むからタチが悪い。
でも、次に集まった時に全く違う私だったら皆が変に思うだろうから、また陽気で3枚目な私を演じてしまう。

それでも、数少ない仲の良い友達は、いろんな私を知っても変わらずに付き合ってくれている。
本当に大好きで大切な存在の友人たちに改めて感謝している。

私は、今までたくさんの嘘をついてきた。
本当は好きじゃない「もの」や「場所」や「こと」を無理して人に合わせてしまってきた。
本当は全然わかっていないのに、わかったふりをしてきた。
ばかにされたくなくて、知ったかぶりをしたり興味のあるふりをしてきた。
保身のために咄嗟に嘘や誤魔化しの言葉で取り繕ってきた。
自分に有利になるように人を陥れる嘘をついたこともある。
自分は可哀想な人だと思ってもらうための作り話をしてしまったこともある。
大事なことから逃げたくて、逃げても仕方ないよと言ってもらえるような、もっともらしい理由を考えて、語って、結果逃げてきた。
自分はぜんぜん嫌いではないのに、自分より気の強い人が「嫌い」「ムカつく」と言っている相手を「だよね」「私もそう思ってた」と悪口を言ってしまうことがたくさんあった。

ある程度大人になるまで、私は人の言葉を額面通りに受け取ってきた、というか裏があるかもしれないと考えたことがなくて、嫌味を言われても、冗談でばかにしているだけのことでも、社交辞令も、そのまま受け取っていた。
同時に、私も相手の気持ちを思い測れない部分が多々あったに違いない。
だから尚更、何十年も付き合ってくれている友人が本当にありがたい存在だと思っている。

光陰矢の如しとよく言うけれど、この歳になってみて、馬鹿みたいだと思われるかもしれないが、20年前なんて本当についこの間のように感じているし、どこかでまだ若い自分が残っているような気持ちでいる、、、ような気がする。
そんな勘違いをしてしまうくらい、時間と言うものはあっという間だとも言える。

自分の内面を書くのは簡単なようで、難しい。
時々、不思議と頭に浮かんでくる、見たことのない、だけど無性に懐かしい、綺麗で暖かくて、そこは私の好きな場所で傷つくことがない場所で、、、じゃあ、そこはどこ?どんな風景?どんな木が生えてる?どこの国なの?空気の匂いは?空気の色は?と言った具体的な説明が難しいことと似ている気がする。

私はいつまで彷徨い続けるだろう。

ただ、無くしたもの、手にできなかったもの、自分に足りないものばかりに目が向いてしまうけど、4度の流産の末に3人の愛おしい子どもたちに出会えたこと、マイホームを持ち、自分の好きなインテリアに囲まれて、毎日ご飯を食べ、お化粧をし、子どもたちと戯れたり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悩んだり、そんな素晴らしい毎日を送ることができている。

まだ、先はある。

発達障害でHSPでアホな笑ママと発達障害の3人の子どもたちのこれから。

長女は学校に行っていないし、ジェンダーについての悩みも抱えている。
でも、独学で学び始めたピアノの上達具合は目を見張るものがあるし、絵もとても上手で、言葉のチョイスも面白い。

私は、死ぬ間際に何を後悔したくないのか?って考えて生きてみたい。

克服したいこと。好きなこと。大切なもの。それがわかっていれば、もっとシンプルに人生を歩めるのではないか?
好きなものは好きと言っていいし、自分には合わないものは合わないと言っていいんだと思う。今まで私は無理して、一体私は誰になりたかったのか。
私は私。これからも、課題や壁がある。失敗もたくさんするだろう。

それでも、人とは違って生きるのが下手で危なっかしくても、私は私で歩いていくしかない。

少しずつ、自分であると言うことの意味がわかってきたような気がしている。

自信はやっぱり持てないけど、人のいろんな気持ちがわかる人になれた。
思いやりを持てるようになれた。変わっていると言われる自分が嫌ではなくなった。
わからないことをわからないと言えるようになった。(脳の構造上仕方ないこと)

短くて、難しくて、愛おしくて、大切な私の人生。

死にたくなるくらい辛いこともあった。死んでしまえば全てから開放されると思ってそれを望んでしまった日もあった。人が怖くて、信じられなくて、誰とも付き合いたくない時もあった。
人が何を言っているのかわからなくて、頭が痛くなることがたくさんたくさんあった。子育てに悩んで、泣いてしまう日もある。先の不安に押しつぶされそうな日もある。

でも、きっと、みんなそう。

それでも、今、生きてる。

今日も日が暮れてきた。

いつか、今日という日がどれほど懐かしく、恋しく感じることだろう。

そのいつかの日に、後悔している自分でありたくない。

発達障害を抱えて、生きていくことは、今までは難しかった。
これからは、ある意味で開き直って生きていこうかと思う。

歳を重ねることは少し図々しくなることなのかな。

昔よくオバタリアンなんて言葉が流行ったけど、世間で言うオバタリアンには
なりたくないけど、確実に若い頃よりは度胸がついたから、周りから見たら立派なオバタリアンかな。

無職、シングルマザー。

先に何が待っているのかわからない道を歩いているから、前向きに見れば自由で面白い道を歩いているのではないか?と考えることにしている。

さあ、もう一度自分の好きなもの、書き出してみよう。

忘れているものや感情にまた出会えるかもしれない。

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