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読後感想 松井久子著『疼くひと』


以前ある女性支援団体でご一緒させていただき、お世話になった映画監督の松井久子さんとFaceBook上で再会しました。

最近、小説を初出版されたとのことで、早速購入しました。

実はその直前に、更年期について感じていることを書かせていただきました。

その後松井さんと再会し、『疼くひと』を知るに至る流れは、単なる偶然とはいえ、どうも必然のような気がしてならず。これは読まねばと、すぐポチった次第であります。

『疼くひと』 あらすじ

昨夜届いた『疼くひと』。
ちらっと読んでみようと思いきや、一気に最後まで読んでしまいました。

あらすじは、こちら(Amazonより)↓

脚本家・唐沢燿子は古稀をむかえ、日に日に「老い」を感じていた。しかしSNSで年下の男と出会い、生活が一変する。男の言葉に一喜一憂するうちに、身も心も溺れていく燿子。人生後半から燃え上がる、大人の恋の行方は……。

更年期になって、バイアスから解放された。
そんなことを先述のnoteで書かせていただいたのですが、『疼くひと』は、そんな自分の20年後のようなリアルさで迫ってきます。

映画を見終わったかのような読後

書き手である松井さんは、98年『ユキエ』での映画監督デビュー以来、『折り梅』『レオニー』『何を恐れる フェミニズムを生きた女たち』など、映画の世界で、フィクションとドキュメンタリー両方の手法を使い、女性を丹念に描いてきました。

私はこの小説を映画にするために書いたのでなく、読者がそれぞれに文字の世界で想像力を膨らませながら読んで頂くものと思ってのことだった

と松井さんはおっしゃっています。

しかし期せずして読後は、まるで映画を1本見終わったような感覚を持ちました。小説を読んで「映画そのもの」と感じたのは30年近く前に読んだ蓮實重彦さんの『陥没地帯』以来でした。

それには二つの理由が考えられます。

松井久子の目

本書の中では、会話の流れや、揺れる思いなど、実にリアルに自然に描かれています。性描写も、大胆かつ緻密。まるで当事者のように感じられます。松井さんは一つ一つのディテールを、リアルな生活の中から丁寧に採取されているのだと思います。

松井さんの目は、それらのディテールの表層に注がれているのではなく、それに内包された生命力にフォーカスされているように感じます。

そして、それらの事象を感じているのは登場人物であり、松井さんはあくまでもそれを第三者という視座から見ている。

その一定の距離感が、表現の熱を一旦覚ましながらも、かえって描かれる内容を際立たせているのではないだろうか。

成功しているドキュメンタリー映画には、第三者観がしっかり保たれている作品が多いと思います。そういった意味で、本書は映画監督の目で描かれている作品だなと感じました。

事柄が示す象徴

本書では、主役の燿子が、料理を作るシーンが頻繁に出てきます。それだけで、絶対美味しいとわかるような絵が、音と共に脳内に再現される。
カメラのアングルや被写界深度までわかるくらい、具体的で完成された映像として浮かんできます。

包丁で切る。水を流して丁寧に素材を洗う。グツグツ煮る。ソースを手早くかき混ぜる。

素材を大切に扱う様子や、一つ一つの工程を手抜きせずきちんと向き合う様子は、まるで燿子の生き方そのもののような気さえしてきます。

それは、映画の中のディテールの持つ意味や象徴、そしてそれらが観客に与える、無意識を揺さぶる力につながっていると感じました。

映画的に感じるもう一つの理由はここにあります。

命のやりとり

あくまでも個人の感覚ですが、『疼くひと』の中では、料理も性も、同じ意味を持っているように感じます。どちらも命のやりとりだからです。

料理は生きるために、他の生き物の命をいただく。ある意味命のリレーとも言えますね。性を捉えたとき、生殖活動として、命をつなぐのは当然だと思われるかもしれません。

本書では純然たる性を愉しみ、解放され、他者と共有していく姿が描かれています。その生き生きと変化していく様子を捉えて、「生殖行為とは違う、命をつなぐわけではない」と誰が言えるでしょうか。

本来、「エロス」は、生命力と同義であると思います。

例えば、人生経験豊富だから、おばあちゃんだから、分別をわきまえているという世間一般の価値観は、それはそれで美しいですが、自分の身に置き換えたとき、「もう歳だから」といって、冒険することの妨げにならないとも限らない。

燿子のようにキラキラしている姿は、むしろ未来を明るくしていくのではないかと思います。その先にはさらにこんな展開が待っているかも、とほのかに予感しながら生きていけることは、事実がどうであれ、それだけで大きな価値があります。

『業平』と『疼くひと』

半年くらい前、高樹のぶ子さんの『業平』で、改めて伊勢物語の凄さを思い知りました。和歌という限定された型の中に、こんなに芳醇で自由な世界があるのかと。

在原業平が、古来なぜそんなに自由奔放とされ、愛されるアイコンであり続けたのかがよくわかります。

自由とは、好きにわがまま放題やるんじゃなく、そこにはある型があり、秩序がある。だからこそ、周りのどんな圧力にも左右されない、凛とした上質な強さやしなやかさが生まれる。

『疼くひと』にも、同じような香り高い自由さを感じました。

大人の世界ってこんなに魅力的なんだ、という新しい憧れ。
性も理性も「解放」する、という生き方もあるのかと、目が開かれた思いです。

おわりに

人生100年時代と言われる昨今ですが、かたや身近なところでは、親の認知症や介護のことなど、問題が山積してい、それらがどうしても自分の行く末と重なってしまいます。

それは、どんよりとした不透明な未来像を空想させ、将来に対する不安につながっているような気がしてなりません。

その不安は否定しようとすればするほど、重くのしかかってきます。でも、自分がこれからいく先に、「もしかしたら」という可能性を持てるだけで、絶望しなくて済む

負の要素や可能性を否定するのではなく、それはそれとして置いておいて、別の豊かな世界が待っている可能性を温める

そういうスタンスが、これからの超高齢化社会を瑞々しく生き切るために必要なのだと思いました。

『疼くひと』、まさに希望の書です。
松井さん、あたらしい世界を見せてくださってありがとうございました。


*秋吉久美子さんとの対談も面白かったです↓





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