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横浜の老舗映画館で『福田村事件』を観る

最近思うところがあって、ひとつ生活を変えてみようと色々試みている。

ジワジワと居住いを変えて行くと、思い出したこと、見えてくるものなど結構ある。大きな変化ではないから、忙しくしていれば忘れてしまうようなささやかなことが多いんだけど、できるだけ今は見落としのないように細かく観察している。

例えば、映画鑑賞。
結婚前までは観たい映画が見つかったら「思い立ったが吉日」状態で身軽に観に行っていた気がする。
そういった衝動的な感覚に素直に乗ることを、結構長い間忘れていた。

結婚して子育てする傍らで、休日も平日もなく朝から晩まで何かしら働いていれば、仕方のないことだったかもしれない。
でも、衝動が起こっても行動に出さず、ほぼ諦めては自分の中に押し込めておくことは必ずしも健康的ではない。

そもそも、子育てやら何やら落ち着いて、時間に余裕ができたからこそ、こんなことも感じられるようになったんだろう。

残り後何年生きられるかもわからないのだから、ここは一つ衝動に乗ってもいいんじゃないか——。

最近になってようやくそのように思えるようになった。

シネマジャック&ベティ

30年ほど前、新卒で就職した会社の神奈川営業部に配属され、初めて横浜にやってきたとき、先ず探したのは映画館(今でいうミニシアター)だった。

その頃横浜には、「関内アカデミー」「横浜日劇」「シネマ ジャック&ベティ」等のいわゆる単館系映画館があった。
それらのオーナーだった福寿祁久雄さんは当時「単館系映画館の雄」といわれ、映画関係者から尊敬を集めていた。まだ50代、血気盛んな時期だったのではないかと思う。

上述のほか、横浜周辺に7館ほど映画館をお持ちだった。(その数年後に、「横濱学生映画祭」を主催することになり、ありがたいことに福寿さんにも実行委員としてご一緒していただいた)

とにかく、福寿さんの映画館の看板を見た途端「あぁ この街でもどうにか暮らしていける」と安堵したものだった。大袈裟でなく、当時は映画館の存在と質が、その街の文化度を測る的確な目安として機能していた気がする。

色々あって福寿さんが映画館経営を辞めると決めた後、引き継いで経営すると名乗り出たのが、今のジャック&ベティの梶原支配人だった。
福寿さんご本人も「やめときゃいいのに」なんておっしゃっていたくらいだったので、再建は想像を絶するほど大変だったのではないかと思う。

けれど、梶原さんや周りの人たちの不屈の精神と長年の尽力により、ジャック&ベティは、若い監督を支援し、質の良い映画を上映する映画館として見事に復活し、さまざまな世代の映画ファンが集まる場になっている。むしろ、昔よりも集まってくるファン層は幅広くなっているような気もする。

集団で生きる人間の性(さが)

そのジャック&ベティで、森達也監督の『福田村事件』を観た。

(映画の詳細はあちこちで書かれているので割愛します)

福田村事件という悲惨な事件が、実際に100年前に起こった事実であること、そして、それが闇に葬り去られたままだったことに驚きと憤りを感じるととともに、よくぞ、劇映画にして教えてくれました、と映画の関係者のみなさんに深く感謝したい。

「人間としての矜持ってなんだろう」「なら自分なら、狂気と恐怖の中で、その矜持を保てるのか」ということを鋭く問われた気がする。

朝鮮人への差別、非差別部落への差別、村の中での差別意識。
それを回避して共同体で自分を維持しようとする個々人のささやかな努力や、共同体から疎まれようと生きたいように生きようとする姿…。

そういったものを「100年前の日本は野蛮だった、未熟だった」では片付けられない。この映画のテーマは、人が集団で生きていこうとすれば必ずつきまとう「差別」や「恐怖心から生まれる狂気」といった普遍的なものだから。

この世で生きて行くことは、ある種薄氷を踏んでいるような危うさがあることに気づく。しかも、踏んでいる本人が気づかないうちに。

盛り上がっている日本映画


今回もう一つ感じたのは、最近の日本映画はすごく質が上がってるなぁということ。

映画館がほぼ満席だったのも嬉しかった。

脚本を3人で書かれていることも、物語に厚みと緻密さを与えている理由ではないか。

日本映画の黄金期を築いた脚本家、橋本忍氏の著作『複眼の映像』には、初期の黒澤映画も脚本は複数で手がけられており、それがどれだけ映画の完成度に貢献するかが書かれている。

臨場感あるカメラワークには、森達也監督がドキュメンタリー出身であることも功を奏しているのかもしれない。

濱口竜介監督のみならず、日本映画は今、50〜70年代に世界に見せつけた底力を、新しい方向性を伴って見せてくれている気がする。勝手な言い分だけど、長い間、泥を被って水面下で耐え忍んでいたところから、不死鳥のような復活劇を見せてくれている。そんな気がして嬉しかった。

映画を共有する貴重さ

オンデマンドで、いつでもどこでも映画を楽しめる時代になっても、見ず知らずの人と同じ映画を共有する楽しみは、他に変え難いものだと思う。多くの人がわざわざ映画館に足を運ぶのは、そういった理由もあるような気がする。

特に口を聞かなくても、なんとなく仲間意識みたいなものが生まれる。
例えば翌日、隣で映画を観ていた誰かと電車の中でばったり会ったとしても、覚えてないだろう。けれど、それでいいのだと思う。というより、だからいいのかもしれない。

束の間、見知らぬ人とでも感動を共有できることは、人間ならではの特権ではないかと思う。こういう一期一会の繋がりはだからこそ貴重だし、何かあった時に心を温めてくれる。

清濁飲み合わせる

そんなことを思いながら映画館を出る。

ジャック&ベティの最寄駅である京急黄金町界隈。
赤線があった当時の危うい雰囲気は薄れているとはいえ、まだその残滓があちこちに転がっている。

何でもかんでも綺麗に、クリーンなイメージにしようとした横浜市の努力は認めるけれど、人間はクリーンなだけでは済まされない。闇や泥の中でもがき、清も濁も飲み合わせたところに人間らしさがあるような気がする。

ゴタゴタしたゴミの多い裏道、色々な言語が飛び交っている黄金町付近を歩きながら、その雰囲気にむしろホッとしながら帰途に着いた。
































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