「学生との対話」

昔、三島由紀夫と同様、カセットテープで聴いたと思う小林秀雄先生の「学生との対話」。

昭和36〜53年に、九州各地(熊本は阿蘇)で行った学生向けの講義の後の質疑応答。

まず、歴史を学ぶことについて、「歴史を知るというのは、みな現在のこと。諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではない。歴史は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じ」という。なるほどぉ。

ただ出来事を調べるのではなく、人間が、その出来事をどう経験したか、どのような意味合いを認めてきたかという、その時の人間の精神や思想を知る、想像することなんだね。納得。

高学歴のインテリゲンチャが唱える学問よりも、ゴミ出しで会った近所のおばちゃんが何気に放った一言の中に、深い学問が隠れていたことに気付いてしまう…。本来、学問とはそういうもので、常に人間の生活・日常に密接したものであるべきなのだ。

今の、ほとんどの「知」には、インテリが唱えるイデオロギーしかない。そんなところに文化があるわけがない。文化は、それぞれの心の中にあるもので、例え、会を作っても、それが育つわけはない。それぞれ自分の魂の中に、文化を持ってないはずがない。インテリはそれを知らない、気が付かない…。

多分、それを言葉として表したのが文学なのだろう。小林先生の言わんとすることが理解できたと思う。

本居宣長を例に挙げて、「我々は、宿命として日本人に生まれてきた。僕も君たちも好んで日本人に生まれたんじゃない。そうであるなら、その運命の通りに生きなければ生きられやしない。例えば日本語を使わなければ、僕たちの心持ちはどうしても表すことができないように生まれついている。これは運命なのだ。伝統の中に入らなければ本当の自分を知ることはできない」。うーむ。

全ての学問は、まずは直感、そして分析という作業に入るわけだ。法則を知るのは科学となる。

文学、哲学、歴史、政治、宗教、人生…。当時の学生らしい抽象的な質問に対し、「そんな抽象的な質問には、僕は答えない」と一喝するところは気持ちがいい。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。