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減速の路 in Chiang Mai

タイ北部の都市・チェンマイの中心市街地で開催されたサンデーマーケットを訪ねた。タイ北部最大級のナイトマーケットと言われるこのサンデーマーケットはその名の通り毎週日曜日に開催され、ラチャダムヌン通りは一時的に約1kmの歩行者天国と化して、そこに屋台や露店が立ち並び大きな盛り上がりを見せる。今回タイに初めて上陸したわけだが、バンコクから寝台列車に14時間揺られて辿り着いたチェンマイには、そんな自分の心を揺さぶる空間があった。

今まで自分はnoteに投稿してきた記事を後から編集したり書き加えたり、なんなら全部消して書き直したりとつい手を加えてしまいがちだったが、今回は決してこれ以上の編集は行わない。2024年3月3日、チェンマイのサンデーマーケットで感じたことを風化させないために、感覚が新鮮な数日以内に言語化を行い、その文章をそのままに残している。もちろんここに書いてあるのはあくまで自分が感じたことでしかなく、いま読んでくれている方にとっては理解し難い部分、共感を示せない部分もあるはずだ。それでも、自分が初めて訪ねたチェンマイで純粋に感じたことを記録している。

サンデーマーケットの入り口・ターペー門

何故か鳩が沢山いるターペー門を通り抜けると、壮大な歩行者天国が形成されていた。タイ料理の屋台に加えて、ガラス細工の置物や工芸品、アクセサリーや雑貨など色々なものが売られる露店が立ち並んでいた。
その場で料理する人、絵画や似顔絵を描く人、彫刻を彫ってその作品を売る人、屋外でマッサージをする人、数週間で消えるタトゥーを彫る人、……何と言うか、自分たちが持つ能力を発揮して、自分たちで生み出したものをそのまま販売するという光景が新鮮に感じた。資本主義はこの地にどこまで介入しているのかまだよくわからない。通りには沢山の外国人観光客がいた。

正直言って、どこの屋台も金を払わずに商品だけ受け取って立ち去ろうと思えば立ち去れるような雰囲気だった。もちろんそんなことはしなかったが、資本の強欲に縛られない自由で解放された様子をなんとなく感じ取った。所謂客引きをする人もここでは全く見かけなかった。

屋外での足のマッサージを体験してみた。100バーツで30分のコースと200バーツで60分のコースがあり、30分のコースを体験してみることに。マッサージをしてくれた女性は親切な上に、時間を気にしている様子は全くなかった。むしろ自分が腕時計を何度も確認して、実際にもう30分をとっくに過ぎて40分ぐらいマッサージをしてくれていることに気づいた。終わった後には現金100バーツに加えてチップを渡した。これほど満足な気持ちでチップを渡せたのは初めてだ。
昨年の夏にアメリカ・ニューヨークであり得ないぼったくりをされたこともあったし(ニューヨークの駅で野宿した後ということもあって判断力が鈍ってしまっていた)、クレジットカード決済の際にチップの額(割合)を選択して支払うというのがよく理解できなかったというか、何かが違うのではないかという感情を抱いていた。未だに顔を鮮明に覚えている、ニューヨークのあいつらはチェンマイを一度訪ねて改心してくれ。

自分の大好物であるスイカはタイでは一年中旬らしい。タイのスイカのスムージーが美味すぎる。将来的なタイへの移住を真剣に検討し始めた。

散策を続けていると、美しい音色の"パッヘルベルのカノン"を演奏する奏者を目にした。

「Help patient who has brain tumor」というメッセージと共にヴァイオリンを弾く男性、そして他の通行人が足を止めて聴き入る風景に感動した。これほどにまで美しい光景を最後に見たのはいつだろうか。本当に胸が熱くなった。

飲み干したスムージーの容器を片手に、道端に座って休憩していたところ、近くの屋台の店主が笑顔で自ら容器を受け取って捨ててくれた。この街はどこまで親切心の権化なんだ。「容器を捨ててやった。だから俺のを買ってくれ。」のように見返りを求める様子は一切無かった。多分ここで無理にその人の商品を買ったり、何かを渡したりするべきではなくて、ただ両手を合わせて感謝を伝えた。この瞬間はこれからもずっと記憶に刻み込まなければならない。

ここで確信したのは、この空間にいる人たちは金儲けとか効率とかそういうよくわからない話ばかり考えているわけではないということ。彼らにとっての対価は感謝の気持ちで、まさに今の社会が必要とする新たな経済の形となり得るものがここにあるのではないか。

サンデーマーケットに限らず、タイの人たちは笑顔で話しかけてくれたり、道案内を丁寧にしてくれたりと親切な人ばかりだった。「今のタイは微笑みの国とは言えない」とかネットの記事で書かれていたとしても、そんなことは自分で確かめないとわからない。自分の感覚を何よりも信じて確かめる必要がある。

道で遊ぶ子どもたちも楽しそうなサンデーマーケットは、時間の流れがとにかくslowだった。色々な音楽が聞こえてきて、色々な人がいる。歩行者のための空間、その計画がまた重要な要素ではないか。

PM10:00を過ぎた頃には、店も徐々に撤収し始める様子だった。帰りたくないと思った。どっちが帰りの方向なのか分からない。Googleマップを見れば良い話だが、ずっとこの路に迷い続けたいと思えるぐらいだった。
サンデーマーケットが閉店した後は、宿の近くのビアガーデンのような場所でアメリカの若い男たち3人でマンチェスターダービーをモニターで観戦。ヨーロッパにもいつか絶対に行きたいし、アメリカもやっぱり自分は好きなのでいつか住みたい。来月から始まる学部4年の1年間は海外に行く余裕も無さそうなので覚悟しなければならない……

ワット・ファン・タオ

はっきり言って自分は東京の街が窮屈で辛くなることがある。特に東京を流れる時間の早さが好きではない。でもアメリカの友人は「東京に行ったことがあるけど本当に良い街で、都市計画の観点からも理想だと思う」と言うように、自分にはターペー歩行者天国が理想的な空間に感じられたが、現地の人たちの意見は様々なのかもしれない。(聞けば良かった……)

だからこの世界全てがチェンマイのターペー歩行者天国のような空間を目指せば全て解決するとかそんな単純な話ではもちろんなくて、この世界には都市空間もあって良い。この世界に正解の形などは無い。

ちなみに、タイで深刻化しているという貧富の差はこのサンデーマーケットでも感じ取られた。どうすれば良いのか正直分からない。目を背けてしまった自分の無力感に絶望することしかできなかった。これはもう少し考えて整理する。

自分はチェンマイの住人でもなく、チェンマイには数日しか滞在していなかったので、この街のことはまだまだよく分からない。ただ、チェンマイの優しさ溢れる空間の存在、そしてその空間から何かを感じ取った人間のこれからのあり方次第では、この世界の時間の流れを少しでも遅らせることができるのではないだろうか。

この世界はもっとゆっくりで良い。
新たなAIの技術が次々と生み出される必要があるのだろうか。生み出される度に誰もが必死にそれに追いつこうとする必要があるのだろうか。
人に迷惑を掛けたら怒られるのは当然だとしても、自分が周りより作業のペースが遅いと怒られたり、単純に能力が低いと責められる日常は何も楽しくない。

時間の流れをもっと遅らせたい。日曜日にチェンマイを訪ねて本当に良かった。

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