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娘と一緒に死について考える。

きっかけは、娘と見ていたアニメのセリフだった。

「人生はあっという間」というようなセリフ。
「”じんせい”ってなに?」と娘がぼくに聞いてきた。

「人が産まれてから、死ぬまでのことだよ」
「みんな死ぬの?」
「そうだね、みんな死ぬね」
「死ぬってなに?」

死ぬってなに? そう聞かれて少し答えにつまった。4歳児にもわかるように答えるにはなんと言えばいいのだろうか。

もう二度と動かなくなること?
心臓がとまること?
細胞が活動を停止すること?

もっとライトな表現もあるだろう。
天国に行くこと。
おばけになること。

でも、あんまりしっくりこない。
なんとなく、うやむや〜とごまかしてしまうことだってできなくはない。だけど死について考えることって、そんなに子どもから遠ざけなくちゃいけないことなんだろうか。

子どもが死について受け入れられないなんて考えるのは、子どもを侮っているようにぼくは感じる。何かしらのタイミングが来たら、それを適当ににごして伝えるのではなく、なるべくストレートに伝えることが大切なんじゃないかと思うのだ。

死について。お金について。性について。

こうしたことって、なんとなく子どもにはタブーなイメージがあるけど。
それを子どもと対話できないというのは、子どもを侮っているか、それらについて自分が対話できる自信がないか、対話をするだけの言葉を持っていないか、なんじゃないかと思ったりする。


「死ぬと、もう動かなくなって、お墓に入るんだよ」
ぼくは死について、魂とか、精神とか、そういうことじゃなくて単純に肉体の変化と行き先について話してみようと思った。お墓に入るなんてもしかしたらちょっと怖いかもしれない。だけど、娘は鳥取の実家にあるお墓の掃除をしたり、お参りをしたりした経験がある。だから、なんとなく意識の中でつながりやすいんじゃないかと思ったのだ。

「お墓に入って、お腹がすいたらどうするの?」
「死んじゃったらもう、お腹はすかないと思うよ」
「え! なんでお腹すかないの?」
「死んじゃうと、たぶんなんにも感じなくなるんだよ。だからお腹もすかないと思うな。それに、お腹が空いても食べられないからね」

「ふーん。パパも死ぬの?」

「そうだよ。例えばパパは。産まれて、子どもになって、お兄ちゃんになって、おじさんになって、おじいちゃんになって。その後に死ぬんだよ」
事故やら病気やら死の条件は色々とある。だけど、まずは理想的? な老衰について説明してみる。

「わたしも?」

「そうだね。産まれて、赤ちゃんになって、子どもになって、お姉ちゃんになって、おばさんになって、おばあちゃんになって。その後に死ぬね」

「ふーん。車にひかれても死ぬの?」
「死んじゃうことだってあるかもね」

「わたしはまだ死にたくないなー」

***

娘が死についてどのくらい認識しているのかはよくわかりません。でも、なんとなくわかってはいるような気がします。
娘の口から「まだ死にたくないな」という言葉が出たとき、いま時点での伝え方や娘自身の認識は、けっして間違ってはいないなと思えました。

***

今日も、見に来てくれてありがとうございます。
その後ザリガニ釣りをしていて、ザリガニが一匹死んでしまっているのを見つけた時。「死んじゃうと、もう動かなくなるんだよ」とすごい発見をしたかのように教えてくれました。彼女の中で、新しく知った概念と現実の事象がつながった瞬間だったのだと思います。こうした学びは、小さくても貴重で大切なものだなと思うのです。
ぜひ、明日もまた見に来て下さい。




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