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学校や教師は確かにわが子のための子育てパートナーである。

小学校(オルタナティブスクール)でインターンをしながら、感じることがある。

それは「(学校、教師は)子育ての一環を担っている」ということ。
つまり、「子どもを育てるって親だけの役割なんかじゃないんだよな」というのを親としても、教師(見習い)としても感じるのである。

社会で子育てをする

この記事を読んで、「社会で子どもを育てる」という価値観がスッと自分の中に浸透していくのを感じた。
これまでも、頭では「親だけじゃなく、周りをもっと頼りながら子育てしよう」「子育てをするためのチームを作っていこう」と考えてきたし、そうして来たつもりだ。
だけど、それまでは「親」としての視点と、子育て支援団体として「親」をサポートする側の視点しか持っていなかった。

でも、学校で子どもたちと触れ合うというのは「(自分の子以外の)子どもを育てる」という立場だった。

当たり前だけど、子どもたちは学校内で様々な問題を起こす。
ケンカをしたり、怒ったり、泣いたり、冗談が行き過ぎてしまうことだってある。
授業を放棄したり、羽目を外しすぎて危ないときだってある。誰かを傷つけることも、誰かに傷つけられることも。

そうしたときに、僕たちは個として子どもたちと接する。
真剣に向き合い、話を聞き、話をする。
そんなとき、僕は自分の考える価値観を確かに伝える。伝わることも、伝わらないこともあるし、伝えようとしている価値観が100%正しいだなんて言い切れないことだって、ある。

子どもたちの言い分と、自分の主張とどちらを尊重すべきか悩むときだってある。

そんなとき、良きにせよ、悪きにせよ、ぼくの価値観を子どもたちは吸収し、消化していく。それは、子どもたちの中で薄まったり形を変えたりしながら、彼らの価値観を形成するための材料になる。

このプロセスはまさに、子育てそのものなんじゃないかと思うのだ。

教師は、勉強だけを教えるのではない。
子どもたちと接しながら、彼らの価値観に多様な影響を与える。

全てではないにせよ、子育ての中のかなり長い時間を子どもたちと過ごし、話す。

それは、「子育ての一環を担っている」のだと思わせるに充分な関わりだ。

教師は子育てのパートナー

子どもを育てる社会の中には、もちろん学校も含まれる。学校は、教師は、子育てをともに行うパートナーなのだ。
その自負を教師になるにあたっては持たなくてはいけないと思う。それは、でしゃばりとか、傲慢なんかでは決してないと感じている。

ラーンネットのナビ(教師)を見ていると、それを強く感じる。子どもたちのために涙を流せるし、喜べるし、真剣に叱ることができる。

彼らは、確かに子育てのパートナーなのだと感じるのだ。

社会で子どもを育てる。
なんて言われても、親や家族は「自分たちだけが子育ての主体者なんだ」という思いはなかなか覆せないかもしれない。
だけど、責任放棄とかそういうことでなく、もっと自然に「学校や、教師もわが子を育てるパートナーなんだ」と思って信じて委ねることも必要なのかもしれない。

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今日も見に来てくれてありがとうございました。
いまは一泊旅行の旅館の中。朝まで起きてる、と豪語していた娘さんはあえなく爆睡。
明日は今治観光。楽しみです。
ぜひ、明日もまた見に来てください。

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