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過干渉は自主性を奪うこと 自主性を奪うことは人生を奪うこと

好きなことをしようと決めてからどれくらいが経っただろうか。
いくつかやりたいことをやってはみたが、ここに来て行き詰まっている。


ずっとやりたいことを我慢してきたせいか、自分でも自分がやりたいことを見失っている。
それでもやりたいことを見つけてトライしてきたが、今、やりたいことが再び無くなってしまった。



将来への恐れからか、無意識のうちに制限をかけてしまっている気もする。
動かないと何も始まらないという気持ちもあるが、何をしていいのかがわからない。


そんなときはどうするのが良いのか。


ネガティブな感情を伴うことは、道が間違っているというサインらしい。
再びやりたいことを見失ってからというもの、活動に虚しさが伴うようになっている気がする。
つまり、今の状態は間違った道なのか。


ちなみに明日は休日である。
一週間前に突如湧いた休みだ。
子どもも夫もいないらしい。
純粋な自分だけの時間。


せっかくの休みなのに、今の私は疲れ切っていて、何の気力も湧かない。
このままでは何もせずに時間が過ぎ去っていくことだろう。


一応はどこかに行こうかとも思ったが、今の私は旅行がしたいわけではなく、何か欲しいものがあるわけでもない。
こんなに気分が落ち込んだままでは、御朱印巡りも作業になりそうで気が引ける。


気軽に誘える友達でもいれば違うのかもしれないが、身近にいる友達は皆、子持ちなので急なお誘いは難しい。


私がやりたいことはなんなのだろう。
結局そこに行き着いてしまう。
この自問自答は一生続くのだろうか。


過干渉タイプの毒親に育てられると、自立心が育たないらしい。
まさに私はそれなんだろう。
自分一人で生きられるタイプだと思っていたが、実は自立していなかったなんて、なんて滑稽なのだろうか。


自分の道を自分で決める。
自立した大人なら誰しもがやっていることであるが、私はいい年をしてそれができていないことをようやく自覚した。


今からでも自分の道を自分で決められるのだろうか。


きっと、私のやりたいことはどこかに行きたいだとか何かが欲しいとかではなく、『自分の道を自分で決めたい』なのだろう。
だからこそ、大きな目標過ぎて行き詰まってしまう。



子どもの頃のように湧いて出る情熱がなくなった今、道を決めるための指針のようなものも見つけられずにいる。
だから、つまづいて立ち往生。
地団駄を踏んでいるのか。


子どもの頃のように目に映るものすべてが新鮮で、目移りするようなことはもうない。
過去の経験から、拒絶されるのが怖くて、内側に入れない。


もしかしたら今、私は第二関門に挑戦しようとしているのかもしれない。
前に進めない。
ただただ足踏みをしている感じ。


ちょっと前まではやたらとポジティブだったような気もするが、気分には波があることを再確認できた。
思考がごちゃごちゃしている今の私が思うことは、子どもから自主性を奪わないでということだ。


よかれと思ってやっているのかもしれないが、
『自主性を奪うこと=人生を奪うこと』
だと思う。



私は未だもがき苦しんでいる。
親が私に残してくれたのは、紛れもなく負の遺産だ。
子を不幸にする負の遺産。


子育ては難しい。
それは私も親だからわかっている。
きっと、いつまでも正解なんてわからないし、間違えることも多々あるだろう。


今更、親に気づいてほしいとも責めたいとも思わない。
すでに私は手遅れだ。
今から改善するにしても、人生が変わるくらいの大転換は難しいだろう。


でも、新たな犠牲者が増えないことだけは切に願っている。
もし、子育て中の人がこの記事を読んだなら、子どもをコントロールしていないか考えてみて欲しい。
今ならまだ間に合うだろうから。





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