見出し画像

子どもの頃の思い出から振り返る これから選ぶべき選択肢

私は子どもの頃の記憶があまりない。
だから、人が思い出話をしているのを見るのが苦手だ。
以前も少し話したが、同世代の人が当たり前に持っているだろう共通の思い出がないのも、苦手である一因だろう。


そんな私でも、全く良い思い出がないわけではない。



例えば、近くの大きな公園に家族で行って、アスレチックをしたこと。
小学校の遊具で遊んだときのこと。
家族旅行でボートに乗ったこと。


ここにさらっと書き出せるくらいの数ではあるが、楽しかった幸せな時間だ。


公園での思い出は、休みの日にどこにも連れて行ってもらえない私の、数少ないレジャーの記憶。
自転車で行けるくらいの公園には、長い滑り台とそれと同じ長さのアスレチックがあって、小学生くらいまでの子どもには最適の遊び場だった。


小学校の遊具で遊んだときは、エメラルドグリーンのかわいいフレアスカートを履いていた。
お下がりでもリメイクでもない、市販の私だけのスカート。
それが嬉しくて、その時のことを良く覚えている。


家族旅行でボートに乗ったときは、通常ならケチって乗らないだろうボートに乗れたことが嬉しかった。
誰の希望で乗ったのかは覚えていないが、私も乗りたいと思っていた。
希望が叶ったことが珍しくて嬉しかった。


トラウマになっているような嫌な記憶はこれら以上にたくさんあるが、一応私にも幸せな思い出があった。


なぜ突然こんな話になったかというと、悩みをなくすには嫌いな人を好きになるしかないという話を聞いたから。



嫌な思い出ばかりの人たちを好きになることなど難しい。
だから、幸せな思い出はなかったのかと考えてみた。
それで思い出したのが、上記の3つである。


思い出して感じたのは、私の幸せな思い出には、共通点があるということ。

  1. 親がかまってくれた

  2. 私が希望することだった

やはり私は、自分を尊重してもらえると幸せを感じるらしい。
そして、親に気にかけてもらえると、嬉しかったらしい。


この頃は親にも余裕がなくて、子どもにかまっていられなかったのかもしれない。
子どもの気持ちを尊重などしていたら、生活が成り立たなかったのかもしれない。



私も子育て世代なので、余裕がない気持ちはわからなくもない。
でも、子どもの気持ちをないがしろにしないと生活できないのなら、どうして3人も作ったのか。
計画性が無さすぎではないか。


休日の数時間。
たった一着のスカート。
5000円で家族全員乗れるボート。

それだけで一生残る良い思い出ができるというのに。


いろんな人の話を聞いて、今、私は自分の心に折り合いをつけようとしている。
人によって言っていることは真逆で、正直何が正解なのかはわからない。


嫌いな人を好きになるしか解決方法がないという人。
毒親を許したり好きになったりできるわけがないのだから、許さなくても良いという人。


いつかこの心が瘉えるとき、私はどれを選択しているのか。
その答えはわからないけど、確かなことが1つだけある。


それは、自分の気持ちをを尊重して出した答えなら、どんな答えであれそれが正解であるということ。
不正解のサインは、心がモヤッとしたかどうか。


本当は気づいていた。
自分の中でモヤッとした選択肢はいつだって間違いだったということを。
例え私以外が正解であると言ったとしても、私がモヤッとした答えは振り返ってみるとすべて不正解だった。



もう後悔はしたくない。
せっかく心がサインを発してくれるのだから、そのサインに従おうと思う。



もちろんこれから先も妨害されることはあるだろう。
でも、知らなかった頃にはもう戻れない。
不幸になるとわかっている選択肢は、もう選べない。


そう、きっと、好きになるとかならないとか、許すとか許さないとか、実際はそんなことはどうでもいいんだと思う。



確かにそこに私がいる。
そう認めてもられるようになるだけで、私は前に進める気がする。
認めてくれる存在は、親でなくとも構わない。
親に認められたかったのは、もう過去の話なのだから。



関連記事はこちら。




#note初心者
#エッセイ
#ブログ
#人生
#生き方
#自分軸
#サイン

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?