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皆んな『さびしさ』の中に生きている。

最近、ゼミの教授と話していて自分が寂しがり屋だと気付かされた。24年間、自分は一人で生きていける人間だと思っていたのに。こんなにも孤独が好きで一人でいる事に一種の誇らしさのような物を持って生きてきたのに、全部何かが壊れてしまった気がする。

自分は一人が好きだと思う瞬間が誰にでもあると思う。子供の頃は映画館に行くときは母か友人と観に行っていたが、いつのまにか一人で観に行くようになった。映画の趣味が合わないこともあるが、隣に誰か居ると落ち着かない。それも顔見知りなら尚更だ。赤の他人の方が気が楽なのだ。もちろん、感想を友人と言い合ったりするのは嫌いじゃない。ただ、今じゃなくて良い。お互いが個人で観に行って学校であの映画観た?と話し合う感じが好きなのだ。良い映画なら特に、すぐに口に出してしまうより余韻を楽しみたい。これが本心だと思う。他人が嫌いな訳でも、永遠に一人が好きな訳でもない。

誰かと話している時でさえ早く一人になりたいと思うことが何度もあった。家族とご飯を囲んで居る時でも、多くの人が集まる場所でも彼女とデートしている時でさえ何故か寂しさのような虚しさが襲ってきて、容赦無く自分の心が曇っていく感じがする。自分は一人で居るのが平気なんだ、孤独は自分のアイデンティティの一つなのかもしれないと思うほどに僕は一人で居る事に羞恥心すら抱かない。

一人でご飯や行動する人間のことを「ぼっち」と言って嘲笑う人間が居るけど、何が可笑しいのかすら分からない。誰だって一人で居たいと思う時や誰かと居るのがしんどいと思う人もいるだろう。いつも群れて行動している人を内心馬鹿にしていた。今ではそれすら虚しく感じる。

そんな調子で生きていたら大学生活が終わろうとしている。友人も沢山出来たしサークルもやりたい事も満足出来るくらいには充実していた。彼女は出来なかったけど。卒業したらきっと友人と会うことは少なくなるだろう。就職や地元に帰り、会う機会が極端に少なくなる。今までは何の予定が無くても会えていたが、これからは会う理由がないと会えなくなる。SNSで誰が何をしているか自己申告しないと近況を知るすべがなくなる。SNSですら連絡を取り合う事も無くなるだろう。

繋がっているはずなのに、繋がっていない。そんな関係が寂しく、虚しさを覚えた。

4年間、お世話になった教授と二人きりで研究室で話し合った。今まで一人でいるのが平気でそれをアイデンティティだと思っていたのに急に寂しさを感じるのは何でだろうか?と尋ねると、ただ一言言うだけだった。

元々寂しがり屋だったんじゃない? 良い事だと思うし、変わったよね

すぐに納得してしまった。自分は今まで強がって寂しくないふりをしていただけだったのか。弱さを見せるのが恥だと思っていた。男なら一人で弱気になっていじいじしているのは格好悪いと自分で決めつけてた気がする。

自分の感情を表に出すのが怖かった。弱かったのだ。寂しい時に寂しいと言えないのは強がっているだけに過ぎない。

24年間、生きてきてようやく「寂しい」と言えるようになったのは遅いのか、それとも早いのか分からないけど、皆んなきっとその「寂しさ」の中に生きているのだろう。意味もないのに誰かと繋がりたがるし、意味もなく群れ、別に居なくたって良いのに恋人を作る事にやけになり、寂しさから逃避できる仕事やお金に縋ろうとする。

全ての感情や行動の中に寂しがり屋の自分がいる。

別にそれは恥ずかしいことでも弱い訳でもなくて、人という存在が寂しい存在なのだと思う。生まれてただ死ぬだけ。それだけなのだから。その短い時間の中を、僕らはどう生きていくか考えて向き合うしかない。



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